1965年(昭和40年)の流行語とその背景

1965年(昭和40年)は、日本が高度経済成長から安定成長へ移行し始めた転換期でした。戦後20年という節目であり、東京五輪翌年の活気とともに、ベトナム戦争の激化や日韓国交正常化といった国際情勢も影を落としていました。

この年には社会現象や世相を反映した言葉が数多く生まれ、人々の会話やメディアを賑わせました。それらの流行語には、政治・社会から生まれた真面目な言葉もあれば、若者文化や娯楽から生まれたユニークなフレーズも含まれています。

以下では、1965年当時に流行した代表的な言葉やフレーズについて、その背景や由来、当時の出来事との関連性を振り返り、現代での位置づけも考察します。

社会・政治を映した流行語

ベ平連(「ベトナムに平和を!市民連合」)

1965年4月、ベトナム戦争への反戦運動として市民団体「ベトナムに平和を!市民連合」、通称「ベ平連」が結成されました。小田実や鶴見俊輔ら知識人を中心に始まったこの運動は、組織政党に頼らない自発的な市民参加による新しい平和運動として注目されます​。

夜通しのティーチイン(討論集会)や街頭デモ、新聞への意見広告掲載、米軍基地内でのビラ配りなど多彩な手法で反戦を訴え、その柔軟で大衆的な活動は当時の社会に新風を吹き込みました。団体名の略称「ベ平連」はメディアを通じて広まり、反戦を象徴する流行語となりました。

ベ平連は1974年まで活動を続け、日本の市民運動史に残る存在となりましたが、「ベ平連」という言葉自体は現代では主に歴史用語として語られ、当時を知る人々の記憶に残るものとなっています。

ティーチイン

ティーチイン(teach-in)は、大学内で教授と学生が集まり政治的・社会的問題について徹底討論する集会のことです​。

元々は1965年にアメリカ・ミシガン大学でベトナム戦争に反対する討論会が「Teach-in」と呼ばれたことに由来し、日本でもその年からこの方式が取り入れられました。ベ平連の活動や大学での議論の場として、夜通し行われる「徹夜ティーチイン」も開催され、学生運動や市民活動の新しい形として話題になります​。

ティーチインという言葉は「討論集会」を指す新語として当時広く使われ、若者を中心に政治参加への関心を高めました。その後、同様の形式は各地の大学や集会で見られましたが、「ティーチイン」という用語自体は一時的な流行にとどまり、現在ではあまり日常で耳にしなくなりました。

公害(こうがい)

1960年代半ば、日本は高度成長の光と影が現れていました。その中で「公害」という言葉が昭和40年に新しく生まれています​。四日市ぜんそくや水俣病など、それ以前から各地で深刻化していた産業公害に対し、ようやく社会全体で問題視する機運が高まったのがこの時期でした。

「公害」という表現は、「公共の害悪」、すなわち大気汚染や水質汚染など不特定多数に被害を及ぼす環境汚染を指す言葉として定着しました​。1965年には東京で初めてスモッグ(大気汚染)警報が発令され​、都市の大気汚染がニュースになります。

こうした背景から「公害」は時代のキーワードとなり、以後の環境保護運動や法整備(公害対策基本法の制定は1967年)につながっていきました。現在「公害」という言葉は誰もが知る一般用語として定着し、公害問題の歴史と切り離せない言葉です。

期待される人間像

期待される人間像」は、1965年当時の教育行政から生まれたフレーズです。中央教育審議会(中教審)がこの年にまとめた教育改革の中間報告書において、戦後日本が目指すべき青少年の理想像を「期待される人間像」として提起しました。

報告書では「日本を愛する人となれ」など幾つかの徳目が掲げられ、国が望む人間像が示されたのです​。このお役所的な表現はマスメディアでも報じられ、皮肉や議論の的ともなりました。

当時は高度成長の中で道徳教育や国民性の議論が活発だったこともあり、「期待される人間像」という言葉自体が一人歩きして流行語化します。人々はこのフレーズを引用しながら理想の人間像について語り合い、時には揶揄しました。現在では当時の教育論を振り返る際に出てくる言葉ですが、日常会話で使われることはほとんどなく、昭和40年前後の時代を象徴するキーワードと言えます。

しごき

「しごき」は元々「鍛え上げる厳しい練習」を意味しますが、1965年には痛ましい事件から一大流行語となりました。この年の5月、東京農業大学ワンダーフォーゲル部の新人訓練合宿で上級生らが度を越した暴行的訓練を加え、新入生1名が死亡、複数が重傷を負う事件が発生します​。

いわゆる「死のシゴキ事件」として大きく報道され、学生スポーツ界の悪弊が社会問題化しました。登山靴での蹴りや「精神棒」と称する棒で腹部を殴るなど常軌を逸したシゴキの実態に世間は衝撃を受け​、「しごき」という言葉は暴力的な猛特訓の代名詞として広まりました。

当時は前年的に東京五輪での日本選手団の活躍もあって根性論が美化されていましたが、それが「行き過ぎた形で曲解された結果」とも受け止められ​、以降スポーツ指導における体罰の是非が問われるきっかけにもなりました。

現在では「しごき」という言葉は以前ほど使われませんが、文脈によっては過酷な練習や新人いびりを指す言葉として残っています。当時の事件は、昭和の学生スポーツ文化の暗部を象徴する出来事として記憶されています。

若者文化・エンタメ発の流行語

「シェー」

赤塚不二夫の漫画『おそ松くん』に登場するイヤミの決めゼリフ「シェー」は、1965年前後に日本中で大流行しました。イヤミが驚いたときに体をくねらせ「シェー!」と叫ぶギャグは子供から大人まで爆発的な人気となり、一種の社会現象となります​。漫

画連載開始は1962年ですが、1965年頃にはテレビや雑誌でこのポーズが頻繁に取り上げられ、ゴジラが映画の中でシェーのポーズをするほどでした。プロ野球選手の王貞治までもが当時真似をしたと言われ、果ては英国のビートルズでさえ日本滞在中にシェーのポーズを披露した逸話が残るなど、「シェー」は国民的流行語となりました。

「シェーッ!」という掛け声とユーモラスなポーズは、その後も昭和を代表するギャグとして語り継がれていますが、現代の日常会話で使う人はほとんどいません。しかし当時を知る世代にとって、「シェー」を耳にすれば一瞬であの昭和40年前後の熱狂を思い出すことでしょう。

「遺憾に存じます」

まことに遺憾に存じます」は、本来は謝罪や声明で使われる丁寧な表現ですが、1965年には意外な形で流行語になりました。ハナ肇とクレージーキャッツのメンバーである植木等が歌うコミックソング『遺憾に存じます』が同年11月に発売され、大ヒットしたのです。

この曲は青島幸男が作詞を手掛け、公務員的なかしこまったフレーズ「誠に遺憾に存じます」を繰り返しつつ、ビートルズの「抱きしめたい」のイントロやエレキギターのフレーズ(寺内タケシとブルージーンズが演奏)を取り入れるという洒落たパロディ音楽でした。

当時、政治家や役人が謝罪会見で口にする紋切り型のセリフを風刺した内容で、植木等の「無責任男」キャラクターにも通じるコミカルさが受けたといえます​。この曲は年末のNHK紅白歌合戦でも披露され​、「遺憾に存じます」というフレーズは一躍お茶の間の話題になりました。

以降、「○○は遺憾に存じます」という言い回しは皮肉やジョークとして使われることも増えました。ただし現代では、この言葉はもっぱら正式な謝罪表明など改まった場面で耳にすることが多く、流行語としての面影は薄れています。

「おめえ、ヘソねえじゃねえか」

一見奇妙なこのセリフ「おめえ、ヘソねえじゃねえか」も、昭和40年に人々の記憶に刻まれたフレーズです。もともとは1964年に放送開始された興和の風邪薬「コルゲンコーワ」のテレビCMで、俳優の保積ぺぺ演じる少年がカエルに向かって「おめえ、ヘソねえじゃねえか!(あれぇ、おめえ、へそねえじゃねえか)」と驚くシーンに由来します​。

腹部にマジックでヘソを描き、「よーし、生意気だぞ!何とか言ったらどうだい!」とカエル相手に息巻く滑稽な内容でした​。

しかしこのCMは「ヘソの無い子供がいじめられる」といった視聴者からの抗議を受け、放送中止となってしまいます。結果として日本初の“放送禁止CM”と噂され、そのインパクトから逆にフレーズだけが有名になりました。

少年の乱暴な江戸っ子口調も相まって、子供たちの間で物真似されるなど話題にのぼりましたが、さすがに短命なブームであり、現代ではCM史のエピソードとして語られる程度です。ただ、「ヘソがない」というシュールな響きは昭和のテレビ文化の一コマとして記憶する人もいるでしょう。

「やったるで」

やったるで!」は、関西弁で「やってやるぞ!」という意気込みを示す表現ですが、1965年にはある人物の口癖・著書タイトルとして流行しました。

その人物とは、日本プロ野球の伝説的投手、金田正一です。金田は国鉄スワローズで通算353勝を挙げた後、1965年に読売ジャイアンツへ移籍しました。このタイミングで本人が執筆した意欲的な自伝本のタイトルが『やったるで!』であり、自身の勝負師としての心意気を示す言葉でした。

移籍先でも活躍する決意を込めたこのフレーズは、スポーツ紙やファンの間で繰り返し取り上げられ、金田の代名詞のようになりました。当時の金田は強気なキャラクターで知られ、「やったるで!」という言葉には昭和野球の豪放磊落なスピリットが象徴されていたと言えます。

以降、この言葉は関西出身のスポーツ選手やタレントが気合を入れる際に使うことも増え、汎用的な激励フレーズとして定着しました。現代でも「今年はやったるで!」のように意気込みを語る際に用いられることがありますが、その元祖が金田正一であり、1965年の流行語だったことは意外と知られていないかもしれません。

エレキ族

1965年は日本でエレキギター・ブームが本格的に花開いた年でもあります。ベンチャーズなどの影響で若者たちにエレキギターが大流行し、エレキをかき鳴らすグループ・サウンズ予備軍の少年たちが街にあふれました。彼らは当時「エレキ族」と呼ばれ、大人世代からは新しい若者文化の象徴として半ば驚きとともに見られました。

エレキサウンドに熱中する様子はメディアでも報じられ、騒音問題や風紀の乱れを心配する声もあったほどです。一方でテレビや映画にもエレキブームは波及し、加山雄三主演の青春映画『エレキの若大将』が公開(1965年)されるなど、ポップカルチャーの中心的存在となりました。

この年ビートルズが世界的人気を博し、日本にもその熱狂が伝わり始めたこともエレキブームに拍車をかけました​。「エレキ族」という言葉自体は一過性のものですが、エレキブームがきっかけで後のグループ・サウンズやロックの隆盛につながり、日本の音楽シーンに与えた影響は計り知れません。

現在では当時を振り返る際に使われる懐かしい言葉となりましたが、エレキギターは今なお音楽の花形として健在です。

「カッコいい」「フィーリング」「TPO」

1965年前後の若者言葉には、現在でも使われるものの原型が生まれたものがあります。例えば「カッコいい」という表現は、それ以前の「いかす」に代わる新しい俗語として定着し始めたとされます(当時の流行語ランキングにも登場)。

英語由来のカタカナ語を日常会話に取り入れる風潮も強まり、「フィーリング」(feeling)は「相性・感覚」の意味で若者が多用するようになりました。「○○とはフィーリングが合う」などと使うこの言葉は新鮮さが受け、流行語の一つに数えられています。

また、「TPO」もこの頃に浸透した略語です。Time(時間)、Place(場所)、Occasion(場合)の頭文字を取ったもので、「TPOに合わせた服装をする」といったように状況に応じた行動様式を意味します。当時のファッション誌やマナー指南で頻繁に使われ、都市生活者のスマートさを表すキーワードとなりました。

これらの言葉は流行当時こそ新鮮味がありましたが、そのまま日本語に根付きました。「カッコいい」は現在でも若者から年配まで誰もが使う一般語となり、「フィーリングが合う」も日常表現として残っています。「TPO」もビジネスやマナーの文脈で相変わらず使われており、一時的なブームを超えて定着した流行語と言えるでしょう。

ファッション・生活にまつわる流行語

アイビールック

1960年代前半から流行していたアイビールック(IVYルック)は、1965年にも高校生・大学生を中心に大人気のファッションスタイルでした。

アイビーとはアメリカ東部の名門大学(アイビーリーグ)に通う学生風のプレッピーな服装のことで、ブレザーにボタンダウンシャツ、細身のチノパンやペニーローファーなど上品かつカジュアルなスタイルが特徴です。日本ではメンズファッションブランドVANジャケット(石津謙介が設立)がこのスタイルを紹介・流行させ、雑誌『MEN’S CLUB』なども相まって若者の間に爆発的に広まりました。

1965年当時は既にアイビールック全盛期で、街にはアイビー少年たちが闊歩し、大人も含め一種の社会現象化していました。背景には戦後の豊かさの中で、欧米文化への憧れとスマートさの追求がありました。アイビールックという言葉自体もおしゃれの代名詞として浸透し、流行語となったのです。

その後、時代とともにヒッピー風やモッズ風などファッションの流行は移り変わりましたが、アイビールックは現在でも復刻ブームが起きるなどクラシックなスタイルとして認知され続けています。

モーテル

1965年頃、日本でモーテルという言葉がクローズアップされました。当時アメリカでは「モーテル(Motor Hotel)」と呼ばれる自動車旅行者向け簡易宿泊施設が一般的で、日本にもその概念が紹介されたのです。しかし日本で言うモーテルは少し特殊で、「車で部屋の前まで乗り付けられるホテル」という形態から転じて自動車で行ける郊外型のラブホテルを指すようになりました​。

高度成長期の車社会到来とともにプライベート空間を求める需要に合致し、都市近郊に似た形式の宿泊施設が登場。若者のデートスポット的な意味合いで「モーテルに行く」という表現が使われたりもしました。当然ながら当時は性的なことにオープンではない風潮もあり、モーテルという言葉にはどこか背徳的・先進的な香りがつきまといました。こうした背景から「モーテル」は1965年の流行語の一つとなり、大人の間でも噂話に上る存在だったのです。その後、

昭和50年代にかけて日本独自の「ラブホテル」が全国に広がり、モーテルという呼称は次第に使われなくなっていきました。現在では当時を知る人以外には死語となりつつありますが、日本におけるレジャーホテル文化の草創期を物語る言葉と言えるでしょう。

ブルーフィルム

昭和40年前後、日本では密かにブルーフィルムという言葉も飛び交っていました。ブルーフィルムとは、性的描写を含む成人向けの短編映画の俗称です。

当時はまだ映倫の規制が厳しく、映画館で公開できるポルノ映画は存在しませんでしたが、地下ルートで欧米のポルノフィルムが8ミリ映写機用に出回ったり、秘画座と呼ばれる私的上映会が開かれたりしていました。なぜ「青い(ブルー)」かと言えば、欧米で卑猥な内容を示す隠語として“blue”が使われることや、発禁処分の際に青い紙の封筒に入れられた説など諸説ありますが、ともかく性的な映画を意味する婉曲表現でした。

その存在が週刊誌などで話題となり、「見たことがあるか」などと酒の席で語られる大人の流行語になったのです。1960年代半ばは性への意識が少しずつ解放に向かう過渡期であり、海外からの刺激的な文化に人々がざわついた時代でした。「ブルーフィルム」という言葉はその後、1970年代に日活ロマンポルノや独立系の成人映画が公然と製作・公開され始めると次第に使われなくなりました。現在では死語に近いですが、昭和の風俗を語る上で外せないワードの一つです。

ジャルパック

1965年、日本人の海外旅行に新たな扉が開かれ、「ジャルパック」という言葉が旅行好きの間で流行しました。ジャルパック(JALPAK)とは、日本航空(JAL)が1965年1月に発売開始した日本初の海外パッケージツアー商品のブランド名です。

前年1964年に日本は海外渡航の自由化に踏み切り、それまで一部に限られていた観光目的の海外旅行が一般国民にも可能となりました。そこでJALがいち早く企画したのがジャルパックで、欧米やハワイへの航空券・宿泊・観光をセットにした団体旅行プランでした。

たとえば第1陣のヨーロッパ16日間ツアーは675,000円で販売され、話題を呼びます​。この新しい旅行形態に人々は熱狂し、「いつか自分もジャルパックで海外へ」という憧れを抱きました。ジャルパックという言葉自体が「海外旅行」の代名詞のように使われ、テレビCMや雑誌広告でも盛んに宣伝されます。海外旅行が庶民にとって夢から現実へ変わる節目に登場したこの言葉は、その後も旅行会社各社のパックツアー商品に受け継がれていきました。

現代でもJALの旅行ブランド名として存続しており​、流行語というより定着した商品名として知られていますが、その誕生が昭和40年であったことは旅行史のトリビアと言えるでしょう。

現代から見た昭和40年の流行語

1965年当時に流行した言葉の数々は、社会の空気や人々の関心を如実に映し出しています。

政治・社会ではベトナム反戦や公害問題など社会意識の芽生えが言葉に現れ、娯楽の面では漫画や音楽、スポーツから次々とキャッチーなフレーズが生まれました。それらの中には「シェー」や「おめえ、ヘソねえじゃねえか」のように一時代のブームとして消えていったものもあります。

一方で「カッコいい」「TPO」「フィーリング」のように形を変えながら今も使われ続けている言葉もあります。また、「遺憾に存じます」のように本来堅い表現が流行語化した例や、「モーテル」「ブルーフィルム」のように時代の移り変わりとともに意味合いや呼称が変化していったものもあります。

昭和40年の流行語を振り返ることで、当時の世相や文化が立ち上がって見えてくると同時に、言葉が時代とともに生まれ、消え、あるいは定着していくダイナミズムを感じることができます。昭和の真ん中で人々が熱狂し、口々に叫んだこれらの言葉は、現代の私たちにとって当時を知る手がかりであり、どこかノスタルジックな魅力を放ち続けています。

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