1973年(昭和48年)は、日本社会が大きく揺れ動いた一年でした。
第一次オイルショックによる混乱や経済的不安から、人々の心情を映し出す言葉が数多く生まれました。また、テレビ番組やCM、流行した書籍からもユニークな流行語が登場し、世相を賑わせました。
本記事では、1973年に流行語となった代表的な言葉やフレーズを取り上げ、それぞれの背景(社会的・政治的・文化的文脈)やルーツ、当時の出来事との関連性を解説します。さあ、昭和48年のタイムカプセルを覗いてみましょう。
オイルショックと経済不安から生まれた流行語
オイルショック
1973年といえば何といってもオイルショックです。第四次中東戦争を契機に中東産油国が原油輸出を制限したことで、日本は深刻な石油不足に陥りました。石油に依存していた経済は大混乱し、ガソリンや日用品の買いだめ騒動が発生しました。特に「紙がなくなる」というデマが広がると、人々はスーパーや商店に殺到し、トイレットペーパーや洗剤が店頭から消える事態となりました。物価も急騰し、この年から翌年にかけて年率20%を超えるインフレとなります。当時の報道や会話では「オイルショック」という言葉が頻繁に使われ、これ一語で石油危機による社会的混乱と衝撃を意味する流行語となりました。
「オイルショック」は元々英語の“Oil Shock”からきていますが、日本ではこの石油危機を指す代名詞として定着しました。1973年の第一次石油危機を特に第一次オイルショックと呼ぶこともあります(1979年に第二次オイルショックが起きたため)。テレビや新聞では「○○ショック」という表現も多用されるようになり、以降も経済に衝撃を与えた出来事には「○○ショック」と名付けるのが定番となりました。
石油不足による混乱の中で、日本は戦後初のマイナス成長に突入し「高度成長」の時代が終わりを迎えます。各地で節電や節約が呼びかけられ、人々は否応なく生活スタイルを見直すことになりました。また、同じ年には終戦直後から固定されていた1ドル=360円の固定為替相場制が正式に放棄され、変動為替相場制へ移行しています。経済面で歴史的な転換点となった年でした。
「オイルショック」という言葉自体は、現在では主に歴史用語として使われます。当時を知らない若い世代でも教科書やニュース解説で耳にするため認知はされていますが、日常会話で使うことはほとんどありません。ただし、2020年代のマスク不足や物価上昇などの際に「○○は第◯次オイルショック並みだ」などと例えで使われることもあり、その衝撃の大きさを伝える比喩表現として残っています。
狂乱物価(きょうらんぶっか)
オイルショックに端を発した激しいインフレは、狂乱物価と呼ばれました。狂乱物価とは「狂乱(狂ったように乱高下する)物価」の意味で、文字通り物の値段が狂ったように上がっていく異常事態を指す言葉です。当時、日用品から食品まであらゆる物価が短期間で急騰し、人々の生活を直撃しました。「狂乱物価」という言葉は新聞の見出しや経済評論家の言説で繰り返し使われ、1973年を代表する流行語の一つとなりました。
元々「狂乱」は株価や相場が極端に上下する様子を表す言葉ですが、1973年の物価高騰を形容する際に「狂乱物価」というフレーズが生まれました。高度成長期には物価上昇があっても所得も伸びていたため生活への打撃は相殺されていましたが、オイルショック時の物価高は賃金上昇を大きく上回り、人々に強い不安を与えました。その状況を端的に表現する言葉としてマスメディアがこぞって用いたことで定着したと言えます。
例えば、1973年から74年にかけて砂糖や食用油の価格が倍近くになり、電気料金やガソリン代も大幅に上昇しました。買い物に行くたびに値段が上がっているという有様で、主婦たちは「明日はもっと値上がりするかも」と買えるうちに買っておこうと走り回りました。まさに狂乱した物価高騰に振り回された時代です。
「狂乱物価」という表現は、現在では主にこの1973~74年のインフレ期を説明する際に使われます。当時を知らない人にもニュアンスで異常なインフレ状態と理解できるため、経済史の文脈で目にすることがあります。ただ、日常会話で最近の物価高を指して「狂乱物価」と言うことはあまりありません(少し誇張した表現になります)。いわば歴史用語化した流行語ですが、そのインパクトゆえに経済分野では語り継がれています。
「いったい日本はどうなるのだろう」
オイルショックと狂乱物価に見舞われた人々の間には、「いったい日本はどうなるのだろう」という不安の声が広がりました。将来への漠然とした恐れを表すこのフレーズは、ニュース番組や雑誌の見出し、さらには庶民の会話の中でも頻繁に聞かれるようになり、1973年の世相を象徴する流行語の一つとなりました。
この言葉自体は誰か特定の人物の名言というわけではなく、人々の心情をそのまま表現したものです。オイルショックで日常生活が揺らぎ、高度成長も陰り見せる中で、「この先日本は大丈夫なのか?」という不安感が社会に蔓延しました。政治スローガンだった「日本列島改造論」(1972年流行語)に対して、現実は真逆の混迷に陥ったことで、皮肉にも「日本はどうなってしまうのか」という嘆き節が流行したとも言えます。
テレビでは経済討論番組でコメンテーターが「いったい日本はどうなるのか」と嘆息し、週刊誌は「日本沈没か?いったい日本はどうなる!」と煽り立てました。事実、小松左京のベストセラー小説『日本沈没』(1973年刊行)が現実味を帯びて感じられるほど、人々は日本の行く末に不安を抱いたのです。このフレーズはそうした世相を反映して広まりました。
省エネ
オイルショックを契機に登場したポジティブな流行語が「省エネ」です。省エネとは「省エネルギー」の略で、エネルギー資源を節約して使うことを意味します。1973年の石油危機でエネルギーの大切さを痛感した日本では、街中のネオン看板が消され、深夜のテレビ放送も早く終了するなど、省エネ施策が一気に広がりました。こうした流れの中で「省エネ」という言葉が日常的に使われるようになり、流行語となったのです。
元々は行政や企業が使い始めた用語ですが、短いカタカナ言葉の響きも手伝って一般にも浸透しました。当時の家庭向け情報誌には「今日からできる省エネ生活術」といった記事が組まれ、省エネ家電や省エネ料理法なども話題になりました。また、1974年には「省エネ法」(エネルギーの使用の合理化等に関する法律)の制定準備が進められるなど、社会全体でエネルギー節約が合言葉になっていたのです。
「省エネ」はオイルショック後の混乱を乗り越えるためのキーワードでした。例えば家庭では暖房の設定温度を下げたり、自家用車の使用を控えたりする動きが出ました。企業でも残業削減や週休二日制の導入検討(オイルショック直後に一時実施した企業もあり)が行われました。まさに生活の隅々で省エネが合言葉となったのです。
「省エネ」はその後も定着し、現代でも日常語として使われています。冷蔵庫やエアコンの性能を表す際に「省エネ○○%達成」などといった表現が普通に登場しますし、地球温暖化対策の文脈でも頻出します。当初は1973年の流行語でしたが、一過性で終わらず日本語に根付いた言葉と言えるでしょう。むしろ今では「エコ」という言葉と並んで当たり前に使われるため、これが流行語発祥だと知らない若い世代も多いかもしれません。
デマゴン
オイルショックに関連してもう一つユニークな新語が生まれました。それがデマゴンです。これは「デマ」と怪獣の「ドラゴン」などを組み合わせた造語で、根拠のないデマ(流言)がもたらす社会の混乱ぶりを、あたかも怪獣が暴れているかのように表現した言葉です。トイレットペーパー騒動のように、人々がデマに翻弄され右往左往する様子を風刺的に表現した流行語でした。
1970年代前半、日本では特撮怪獣映画やテレビ番組が子どもたちに人気でした。その影響もあってか、大人の社会現象を揶揄するのにも怪獣になぞらえる発想が出てきたのでしょう。「デマゴン」は新聞の風刺漫画などで使われたとも言われ、巨大怪獣デマゴンが街で大暴れ=人々がデマに踊らされて大混乱、という図式です。当時の混乱ぶりをユーモラスに切り取った表現でした。
正直なところ、「デマゴン」という言葉は現在ほとんど使われていません。当時の流行語ではありますが、一時的な造語だったため定着しなかったものです。ただ、近年でもSNS上のデマが社会混乱を招くケースがあります。その際に1973年の出来事を引き合いに出して「まるで現代のデマゴンだ」といった具合に解説する記事が稀に見られる程度です。当時を知る世代にとっては懐かしい一言でしょう。
暮らしを見つめ直すスローガンと流行語
狭い日本、そんなに急いでどこへ行く
「狭い日本、そんなに急いでどこへ行く」というフレーズは、1973年当時に広く知られたキャッチフレーズです。一見すると哲学的ですが、実は1972年の交通安全標語として考案されたもので、日本交通公社(現在のJR)のキャンペーンなどでも使われました。高速道路網が整備され車社会が進む中で生まれた「安全運転」を呼びかける標語ですが、その内容が「ゆっくり行こうよ」というスローライフ的なメッセージとして共感を呼び、翌1973年にも引き続き流行語的に取り上げられました。
1970年代初頭は高度成長に伴い、人々の生活リズムもどんどん忙しなくなっていました。そんな中で生まれたこの標語は、「狭い国土の中であくせく急いでも仕方がないでしょう?」というユーモアと警鐘を込めた言葉でした。選定当初は交通安全運動の一環でしたが、オイルショック後に経済成長が鈍化すると、この言葉が持つ「ゆっくりと落ち着いて」というニュアンスが改めてクローズアップされます。人々が先の見えない不安な時代にあって、「そんなに急いでもしょうがないよな」という気持ちでこの標語を噛みしめたとも言われます。
テレビや新聞でもこのフレーズが話題になり、「ユックリズム(ゆっくり主義)の哲学」などと紹介されることもありました。例えばワイドショーでコメンテーターが「狭い日本、そんなに急いでどこへ行く、ですよ」と苦笑交じりに語る場面があり、視聴者の頷きを誘いました。また、運送業界などでは実際に社内標語として掲げる会社もあったほどです。
このフレーズは、今でも中高年層にはよく知られた言葉です。高速道路を飛ばす車を見たときに「そんなに急いでどこ行くの?」と冗談めかして使われることもあります。ただし若い世代には通じない場合もあり、完全に日常語とは言えません。どちらかというと昭和の名標語として語り草になっているタイプの流行語です。しかし現代の「スローライフ」や「ゆとり」の思想にも通じるものがあり、時折メディアで昭和の懐かしネタとして紹介されることもあります。
ぐうたら
1973年、「ぐうたら」という言葉がある種のキーワードになりました。「ぐうたら」とは怠け者、無精者を指す俗語ですが、この年に遠藤周作による『ぐうたら人間学』をはじめとする「ぐうたらシリーズ」のエッセイ集が次々と出版され、ベストセラーになったのです。高度成長で走り続けてきた日本人に向けて、「たまにはぐうたらしてみませんか?」と語りかけるこれらの本は大きな話題となり、そのタイトルから「ぐうたら」が流行語としてクローズアップされました。
作家の遠藤周作はユーモアを交えて人間の怠惰や弱さを肯定的に捉えるエッセイを書き、それを「ぐうたら○○学」というシリーズ名にしました。1973年には『ぐうたら人間学』『ぐうたら愛情学』『ぐうたら交友録』と立て続けに刊行され、いずれもベストセラー入りしています。勤勉であることが美徳とされた日本社会で「ぐうたら」をあえて肯定する内容が新鮮で、読者に笑いと安らぎを提供しました。これにより「ぐうたら〇〇」という言い回しや、「今日は一日ぐうたらしたいねぇ」といった表現が市民権を得たのです。
遠藤周作のエッセイのヒットもさることながら、世間では「ぐうたら」という言葉を使ったコピーが氾濫しました。雑誌は「ぐうたら式健康法」といった特集を組み、テレビでも「今週のお父さんはぐうたら宣言」なんて企画が登場したほどです(家族サービスに疲れたお父さんが日曜日は何もしない宣言をする、といった内容)。経済が苦しくなっても無理に頑張りすぎず「適度にぐうたら」が当時の隠れた合言葉だったのかもしれません。
「ぐうたら」という言葉自体は現在でも口語表現として使われています。「休日はついぐうたらしちゃう」といった具合に若い世代でも通じる言葉です。ただし、それが1973年にブームになった言葉だと知る人は少ないでしょう。遠藤周作のエッセイシリーズは今も読むことができますが、当時ほど話題にはなっていません。「ぐうたら」は日常語に溶け込んだがゆえに、もはや流行語の面影はないと言えるかもしれません。
テレビ・メディア発の人気フレーズ
うちのカミさんがね
1973年頃、テレビドラマから生まれた流行フレーズとして有名なのが、刑事コロンボの口癖「うちのカミさんがね」です。米国のテレビドラマ『刑事コロンボ』シリーズが日本でも放送され大ヒットしましたが、主人公コロンボ警部補(演:ピーター・フォーク)が事件の聞き込みなどの際によく言うセリフがこれでした。「うちのカミさん(=家内)がね、〇〇と言っていたんですが…」という具合に、会話の枕詞として登場するため、視聴者の記憶に強く刻まれたのです。
「うちのカミさんがね」は、海外ドラマを日本語吹き替えする際に翻訳されたセリフです。オリジナルの英語では “My wife…” と言っている部分ですが、日本語吹き替え版では親しみやすい江戸っ子的な響きで「うちのカミさんがね」に置き換えられました。この翻訳が秀逸で、小池朝雄さんによるコロンボの吹き替えと相まって視聴者に強い印象を残しました。いつも名前だけで本人は登場しない「カミさん」(奥さん)の存在も話題となり、コロンボファン以外にもこのセリフだけが独り歩きして流行したのです。
物真似番組ではコロンボのモノマネ芸人が「うちのカミさんがねぇ…」と葉巻をくゆらせる姿が登場し、お茶の間を沸かせました。また、日常会話でも会社の上司が雑談で「うちのカミさんがね、と言いたいところだが独身なんだよハッハッハ」という冗談を飛ばす、といった使われ方もしました。テレビの名セリフがこれほど広く一般に浸透するのは当時としても珍しかったようです。
このフレーズは今でも中高年にはすぐ通じる有名なセリフです。しかし若い世代には刑事コロンボ自体が古典となっているため通じないこともあります。とはいえ、今でも夫婦の話題でちょっとユーモラスに「うちのカミさんがね…」と使う人もおり、昭和のテレビ名言として生き残っていると言えるでしょう。なお、「カミさん」という夫が妻を指す言い方自体は現在も使われますが、このフレーズ由来というより昔からある口語表現が残っている形です。
「ちょっとだけよ」「あんたも好きね」
1970年代を代表するコメディ番組『8時だョ!全員集合』からは、数々の流行語が生まれましたが、中でも1973年に大流行したのが「ちょっとだけよ」、そして「あんたも好きね」です。これらはザ・ドリフターズの加藤茶さんがコントの中で発したギャグで、一種の決め台詞でした。
「ちょっとだけよ」は、加藤茶扮する女装キャラクターがお色気たっぷりに衣装を少しずつまくり上げながら発するセリフです。観客がドッと沸いた後、志村けん扮する下心アリの男に向かって「あんたも好きね(=本当に好きなんだから)」と突っ込む流れが定番でした。このやり取りが毎週のようにお茶の間で繰り返され、子供から大人まで口真似するほどの人気となりました。「ちょっとだけよ」は見せたがり、「あんたも好きね」はそれを喜んで期待しちゃう人、というコミカルなシチュエーションを簡潔に表すフレーズとして秀逸だったことも流行の理由でしょう。
子供たちは学校で「ちょっとだけよごっこ」を真似し、大人も飲み会の席でこのセリフを使って笑いを取る光景が見られました。テレビのバラエティでも他の番組がこぞってドリフのギャグを真似し、一種の社会現象でした。1973年当時の流行語ランキングでも上位に入るほどで、「ちょっとだけよ」「あんたも好きね」はセットで国民の合言葉のようになっていたのです。
ドリフのギャグはその後も語り草となり、現在でもお笑い番組や懐古企画で目にすることがあります。「ちょっとだけよ」「あんたも好きね」も有名なフレーズとしてお笑い好きなら知っていますが、日常会話で使われることはほぼありません。令和の若者にこれを言ってもポカンとされるのがオチでしょう。ただ、日本のコメディ史を語る上で外せない名台詞であり、知っていれば昭和通アピールになるネタかもしれません。
「じっと我慢の子であった」
1973年にはもう一つ、「じっと我慢の子であった」というフレーズも話題になりました。これはテレビCMから生まれた流行語です。大塚食品の即席カレー「ボンカレー」のCMで、落語家の笑福亭仁鶴さんが時代劇『子連れ狼』の主人公・拝一刀(おがみいっとう)になりきって発したセリフがもとになっています。劇中の名台詞「**にござったか」(元ネタ)をもじり、熱々のボンカレーが出来上がるまでの3分間を「じっと我慢の子であった」と表現したのです。
『子連れ狼』は小説や漫画が原作で、1973年に萬屋錦之介主演でテレビドラマ化もされ人気を博していました。仁鶴さんはそのキャラクターになりきり、「3分間待つのだぞ」(熱湯で温めるボンカレーの調理時間)と子供に命じた後、自らも「じっと我慢の子であった」と渋く言ってみせる――このコミカルなCMが大受けしたのです。元々は時代劇のシリアスなセリフを、カレーの出来上がりを待つシーンに転用したギャップが笑いを誘いました。このフレーズ自体も「ひたすら我慢の状態」を表す言い回しとしてインパクトがあり、CM放映後に視聴者の間でちょっとした流行語になりました。
子供から大人まで「じっと我慢の子であったよ!」と真似をしましたし、他の即席麺やインスタント食品のCMでもパロディに使われたほどです。流行語ランキングでも上位に入り、テレビCM発の言葉としては異例のヒットとなりました。また、このCMの「3分間待つのだぞ」というセリフもセットで有名になり、以後インスタント食品を待つ間にこのフレーズを口にするのがお約束になった家庭もあったとか。
ソク(即)
もう一つ、1973年には食に関するユニークな流行語がありました。それは「ソク」、カタカナ二文字の言葉です。これは「即席」の「即」を取ったもので、「すぐ」「即座に」といった意味合いで使われました。発端はある即席カレー食品のテレビCMで、「ソク○○!」と強調するフレーズが登場したことにあります。具体的な商品名は定かではありませんが、インスタント食品の便利さをアピールするコピーだったようで、「ソク○○できる!」という言い回しが視聴者の印象に残りました。
1970年代前半はインスタントラーメンやレトルト食品などの即席食品ブームでした。「3分間待つだけ」で食べられるボンカレーもその一つです。そうした中で企業は「即席=すぐできる」ことをアピールするため、広告で「即○○」という言葉を多用しました。CMの中では「ソク」という短い響きが連呼され、それが視聴者にも伝染して日常会話で冗談ぽく「ソクやってよ!」などと言う人が現れたのです。「ソク」は日本語の接頭語「即○○」をカタカナ表記で強調した形で、当時の広告的な流行でした。
例えば子供が親に「宿題やりなさい!」と言われて「ソクやるよ~」と茶化す、といった使われ方がされたようです。雑誌にも「ソクできるお手軽レシピ!」なんて見出しが躍りました。ただ、「ソク」は単体で使うというより「ソク〇〇」の形で使われるので、言葉そのものよりも「即席」「即〇〇」という表現が広がったと言えます。1973年当時の流行語として名前が挙がるのは珍しいタイプですが、世相としてそれだけ「スピード」「即効性」が注目された時代でもありました。
「ソク」という言葉単体が使われることは現代ではまずありません。ただし「即○○」という言い回しは引き続き一般的です(例:「即買い」「即レス」など最近のネットスラング的用法もあります)。インスタント食品のCMでも「すぐできる!」とは言っても「ソク!」とカタカナで強調するような演出は見られなくなりました。当時の一種の広告キャッチコピーの流行と捉えられますが、現在から見るとかなりマニアックな流行語と言えるでしょう。
1973年(昭和48年)の流行語を振り返ると、経済の激動を反映したシリアスな言葉から、テレビや広告が生んだユーモラスなフレーズまで実に多彩でした。オイルショックに伴う「オイルショック」「狂乱物価」のような言葉は、その後歴史に刻まれるキーワードとなり、一方で「うちのカミさんがね」「ちょっとだけよ」といったお茶の間の流行フレーズは昭和の笑いとして語り継がれています。これらの言葉が流行した背景には、日本社会が直面した 試練と変化 があります。不安な時代には不安をそのまま言葉にした表現が、人々の心を癒やしたい時には笑いや諧謔のある表現が、それぞれ支持を集めたことがうかがえます。
現代の視点で見ると、1973年の流行語のいくつかはすでに日常語として定着し、逆にいくつかは死語となっています。しかし、それらの言葉は確かに当時の人々の生活や感情を映し出す鏡でした。流行語をひも解くことで、その時代の空気感や社会の声が聞こえてくるようです。昭和48年の日本を彩った言葉たちから、あの激動の一年を感じ取っていただけたなら幸いです。これからも昭和の流行語の旅は続きます。