1975年(昭和50年)の流行語とその背景

1975年(昭和50年)は、日本が高度経済成長の終焉と新たな時代への転換期にあたりました。この年には政治の汚職スキャンダル後の「クリーン」志向や、環境問題への目覚め、経済の停滞による国民の疲労感、若者文化の変化、そしてテレビや音楽から生まれたヒットなど、世相を反映する様々な言葉が流行しています。

例えば、政治では「クリーン三木」といったクリーン政治が叫ばれ​、社会問題では有吉佐和子の著書に由来する「複合汚染」という言葉が人々の関心を集めました​。一方で、CMのユーモラスなフレーズ「チカレタビー」が低成長期の人々の気分を代弁し、ヒット曲の歌詞「アンタあの娘の何なのさ」が流行語になるなど​、明るい話題も生まれています。

本記事では、1975年に流行した主な言葉・フレーズについて、その背景や由来、当時の出来事との関係、そして現代での扱われ方までを詳しく解説します。

政治・社会を映す流行語

「クリーン」政治ブームとその挫折

1974年の田中角栄首相退陣(いわゆる金脈問題)を受けて、翌1975年の政界では「クリーン」な政治がキーワードとなりました。アメリカではウォーターゲート事件後に就任したフォード大統領が「クリーン・フォード」と呼ばれ、日本でも三木武夫首相がクリーン政治を標榜し「クリーン三木」と称されました。

さらにプロ野球界でも読売ジャイアンツ新監督の長嶋茂雄が「クリーン・ベースボール」をスローガンに掲げました​。しかし皮肉にも、クリーン三木内閣は短命に終わり、長嶋巨人もこの年まさかの最下位に沈みます。

こうした結果から「クリーン」という言葉は期待倒れの象徴ともなりました。当時は汚職体質への反省から生まれた流行語でしたが、その後「クリーン政治」という言い回し自体は一般用語化し、現在でも政治家のクリーンなイメージを語る際に使われるものの、「クリーン〇〇」といったキャッチフレーズがもてはやされる熱狂は1975年特有のものでした。

環境への警鐘「複合汚染」

高度成長期の陰で深刻化した公害問題も、1975年には大きな関心事でした。その象徴が「複合汚染」という言葉です。有吉佐和子の小説『複合汚染』が1974〜1975年に朝日新聞で連載され、農薬など複数の化学物質による環境汚染の実態をわかりやすく描き出しました​。

この作品は化学物質に対する社会の認識を高め、食品の安全や有機農法への関心を高めるきっかけとなり​、タイトルである「複合汚染」というフレーズ自体が環境問題を象徴する流行語として広まりました。当時、日本では四日市ぜんそくや水俣病などの公害の教訓を踏まえ、1971年に環境庁(現・環境省)が発足するなど環境保全への動きが進んでいました。

そうした中で登場した「複合汚染」は、「一つひとつは許容範囲でも複合的に重なると深刻な被害をもたらす」という警鐘として受け止められ、環境への不安と対策を考える流行語になったのです。現在でも環境分野では複数汚染物質の相乗効果を語る場面で使われることがありますが、当時ほど日常的に耳目を引く言葉ではなくなりました。

学力問題と「乱塾」現象

1970年代半ば、日本の教育界では学力格差や受験競争が社会問題化し始めました。「落ちこぼれ」という言葉がこの頃登場し、学校の授業についていけず零れ落ちてしまう子どもたちの存在がクローズアップされています​。それに伴い、公教育の補完を目的とした学習塾が雨後の筍のように乱立しました。

こうした無秩序に増える塾の状況をマスコミは「乱塾」と表現し、1975年の世相を表す流行語の一つとなりました。「乱塾」は、受験戦争激化への警鐘として使われた言葉であり、公立学校だけでは対応しきれない教育ニーズに社会が揺れていたことを示しています。当時は学習意欲の高い家庭が競って子どもを塾に通わせる一方で、経済的事情で塾に行けない子どもがおちこぼれになるという懸念も語られました。

この言葉は一時的な流行語であり、その後教育政策の議論などで用いられることはあっても、一般の人々の会話にのぼる機会は減っています。とはいえ「塾社会」「受験戦争」といった語とともに、昭和50年代の教育熱の過熱ぶりを物語るキーワードとして現在も語られることがあります。

テレビ・CMから生まれた流行語

「チカレタビー」― 疲れた時代のユーモア

高度成長が終わり低成長時代に突入した1975年、日本社会にはどこか疲労感が漂っていました。その空気を代弁するかのように流行したのが、CMから生まれたフレーズ「チカレタビー」です。「チカレタビー」とは「疲れたよ~」という意味のコミカルな言い回しで、語尾を伸ばした独特の響きが特徴です。

当時放送されたあるテレビCMでキャラクターが発したセリフがきっかけで人気に火が付きました。低迷する経済の中で「もう疲れちゃったよ」という気分が国民に共有されており、このフレーズはまさにその時代の心情にマッチしたのです。1973年のオイルショック以降、1975年には戦後初めて実質GNP成長率がマイナスになる景気後退を経験します。

そんな不況下で、人々は自嘲気味に「チカレタビー」と口にして笑い飛ばし、重苦しさを和らげていたのかもしれません。かわいらしい語感も手伝って子供から大人まで真似され、一種の癒やしを与える流行語となりました。しかしこの言葉自体は一過性のブームであり、現在では当時を懐かしむ世代以外には通じない死語になっています。

「私作る人、僕食べる人」― ジェンダー論争を呼んだCMコピー

1975年に放送されたハウス食品のインスタントラーメンのテレビCMのキャッチコピー「私作る人、僕食べる人」もまた、この年を代表する流行語です。CM内で女性が「私作る人」、続いて男性が「僕食べる人」と発するこのフレーズは、家庭における男女の役割分担を端的に表現したものでした。しかし放送開始から1か月後、このコピーは性別役割分担の固定観念を助長するとして婦人団体から強い抗議を受けます​。

折しも1975年は国際連合が定めた国際婦人年であり、日本でも市川房枝らの呼びかけで「行動を起こす女たちの会」などウーマンリブ運動が活発化していた時期でした。同年には「中ピ連」と呼ばれる、中絶禁止法への反対と経口避妊薬(ピル)解禁を訴える女性団体が登場するなど​、ジェンダー平等を求める声が高まっていた背景があります。

こうした流れもあり「私作る人、僕食べる人」のCMは社会問題に発展し、放送開始から約2ヶ月で中止に追い込まれました。日本においてジェンダーの観点から広告が批判された最初の事例とも言われ、このフレーズは男女平等意識を問う象徴的な言葉として語り継がれています。

現在ではもちろんCMで使われることはなく、当時の価値観を物語るエピソードとして教科書などに登場することもありますが、インターネット上では逆にネタ的に引用されることもあり、“炎上CM”の草分け的存在として記憶されています。

「ひと味ちがいます」— 定番宣伝文句が流行語に

ひと味ちがいます」も1975年に流行したフレーズの一つです。元々は「他とは一味違う○○」というように、他との差別化やちょっとした優位性をアピールする決まり文句ですが、この年、とある食品のテレビCMで繰り返し使われたことで人々の耳に残り、流行語化しました。

具体的な商品名は諸説ありますが、視聴者に「あのCMの『ひと味違います』が頭から離れない」と言わしめるほど印象的だったようです。以降、このフレーズは様々な商品の宣伝で使われ、日常会話でも「彼女の料理はひと味違うね」などと冗談めかして使われるようになりました。元来汎用的な表現であるため流行語としての寿命は長く、昭和50年代を通じて広告コピーや雑談の中で定着していた印象があります。

現在でも「ひと味違う〇〇」という表現自体は普通に使われ続けており、死語にはなっていません。ただし流行語としての新鮮味はさすがに薄れ、当時を知らない若い世代にとってはごく当たり前の日本語フレーズと映るかもしれません。

「オヨヨ」— お茶の間を沸かせたギャグ

オヨヨ」は1975年当時、テレビのバラエティ番組を通じて流行したユーモラスなリアクション言葉です。上方落語家でタレントの桂三枝(現・6代目桂文枝)が、毎日放送の公開お見合い番組『パンチDEデート』の中で緊張した女性参加者にツッコミを入れる際、「オヨヨ…」とずっこけたような声を上げたのが始まりと言われています​。

驚きや困惑をコミカルに表現するその愛嬌ある響きに、お茶の間の視聴者も思わずクスッとなり、「桂三枝といえばオヨヨ」のイメージが定着しました。当時は他の芸人も真似してギャグに取り入れるなど、全国に浸透する流行語となりました。「オヨヨ」は驚きを表す擬音的な感嘆詞ですが、このように特定の芸人の口癖がそのまま流行語になるのも昭和時代のテレビ文化ならではでしょう。

現在では桂三枝本人が芸名を改めたこともあり、このギャグをリアルタイムで知る人も少なくなりました。当時を振り返るバラエティ番組や懐かしCM特集などで取り上げられる程度で、日常会話で使われることはまずない死語と言えます。しかし昭和を代表するお笑いフレーズの一つとして、今なお語り草になっています。

音楽・若者文化から生まれた流行語

不良少年の代名詞「ツッパリ」

1970年代半ばの若者文化を語る上で欠かせない言葉が「ツッパリ」です。ツッパリとは、本来「突っ張る」の名詞形で「意地を張る人」「強がる人」といった意味ですが、この頃から特に不良少年グループを指す俗語として使われるようになりました​。学生運動が沈静化し政治への関心が薄れた若者たちの中には、一方で派手なファッションや暴走族文化など独自の反抗スタイルが現れました。リーゼント(髪を後ろに梳かし上げた髪型)に長ランやドカンといった制服改造ファッションで街を闊歩する不良少年たちを、人々は「ツッパリ」と呼んだのです。

その語源は「突っ張る=強気な態度をとる」から来ていますが、当時の漫画や音楽にも影響を与え、後にツッパリをテーマにした曲(例:「ツッパリHigh School Rock’n Roll」)や映画が1980年代に登場するほど社会現象化しました。1975年当時はまだ新しい言葉で、「ツッパリ」に憧れる地方の中高生も現れ始めた時期です。

この言葉自体は80年代には日常語として定着しましたが、平成以降は死語化が進み、今では昭和の不良文化を語る懐古的な表現として使われるにとどまります。それでも「ツッパる」「ツッパリ」という言葉は現代の若者にも意味は通じる場合が多く、昭和の遺産として日本語に残っていると言えるでしょう。

流行歌の名セリフ「アンタあの娘の何なのさ」

1975年は音楽の世界でもユニークな流行語が生まれました。その代表例が、ダウン・タウン・ブギウギ・バンドのヒット曲『港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ』の冒頭の歌詞「アンタあの娘の何なのさ」です。荒っぽい口調で「お前、あの子とどういう関係なんだ?」と詰問するこのフレーズは、歌の強烈なインパクトも相まって瞬く間に世間に浸透しました。

宇崎竜童率いるダウン・タウン・ブギウギ・バンドはこの年テレビや歌謡界で脚光を浴び、その歌詞のインパクトからバラエティ番組などでもこのセリフが頻繁にパロディされました。「アンタあの娘の何なのさ?」と怪訝な顔で言う仕草は、友人同士で冗談を言う際にも真似されたものです。当時はハスキーなボーカルと挑発的な歌詞が若者に支持され、シングルも大ヒットしました。その結果、この一節自体が独り歩きして流行語となったのです。

現在ではこのフレーズを直接使う場面はほとんどありませんが、昭和の流行歌の名セリフとして語り継がれています。カラオケで曲を入れてこの部分を歌えば、中高年世代には思わずニヤリとする人もいるでしょう。当時を知る人々にとっては懐かしく、若い世代にとっては新鮮に響く、時代を超えた名フレーズと言えます。

社会現象となった童謡「泳げ!たいやきくん」

1975年の年末に発売され、翌1976年にかけて空前の大ヒットを記録した曲があります。それが子門真人が歌う童謡『およげ!たいやきくん』です​。この曲はフジテレビ系の子供番組『ひらけ!ポンキッキ』で生まれた楽曲で、たい焼き屋から逃げ出したたい焼きが海で自由に泳ぎ回るというユーモラスで少し風刺の効いた内容でした。

発売当初は子供向けのキャラクターソングという位置付けでしたが、その軽快なメロディーと歌詞の面白さが口コミで大人にも受け入れられ、次第に社会現象化します。1976年初頭にはレコード売上が爆発的に伸び、オリコンチャートで11週連続1位を獲得​。累計売上は450万枚を超え、当時オリコン史上最大のヒット曲として歴代記録を打ち立てました​(シングル売上記録は現在も破られていません)。

子供向け楽曲がこれほど売れたのは史上初で、街中でも「♪泳げ~ニャンニャンニャン」のフレーズを口ずさむ人が続出しました。レコード大賞こそ逃したものの、その年の紅白歌合戦でも披露され、日本中が“たいやきくんブーム”に沸いたのです。曲のヒットによりたい焼きの売上が急増し、関連グッズが飛ぶように売れるといった社会現象も生みました。

おわりに:昭和50年の言葉から見えるもの

1975年(昭和50年)の流行語を振り返ると、政治や社会の変革期にあって人々が求めた理想や不安(「クリーン」「複合汚染」「乱塾」)、経済停滞の中で生まれた自虐的ユーモア(「チカレタビー」)、そして新しい文化や価値観の台頭(「私作る人、僕食べる人」「ツッパリ」)が浮き彫りになります。

同時に、音楽やテレビから生まれた言葉(「アンタあの娘の何なのさ」「オヨヨ」「泳げ!たいやきくん」)には、人々に笑いや安らぎを与えた昭和の大衆文化の力強さも感じられます。

これらの言葉の中には、今では使われなくなったものも多いですが、それぞれが誕生した背景を知ることで、昭和50年当時の日本の世相や空気感を学ぶことができます。当時を知る世代にとっては懐かしく、若い世代にとっては新鮮な発見となる流行語の数々。

昭和の歴史を映すこれらの言葉は、時代を超えて私たちに多くのことを語りかけてくれるのではないでしょうか。

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