1976年(昭和51年)は、日本で社会を揺るがす大事件が発生し、それに伴って数々の印象的な言葉が生まれた年です。この年、日本初の五つ子誕生やアントニオ猪木対モハメド・アリの異種格闘技戦といった明るい話題もありましたが、世間の注目を独占したのは戦後最大級の汚職事件「ロッキード事件」でした。
ロッキード事件は政治・社会に大きな衝撃を与え、その過程で関係者の発言や隠語が全国的な流行語となりました。
この記事では、昭和51年当時に流行した主な言葉・フレーズとその背景・由来、そして現在でも使われているかどうかを、当時の出来事と絡めて解説します。
「記憶にございません」
背景・由来:国会証人喚問での発言から誕生
1976年のロッキード事件追及の中で飛び出したのが、この「記憶にございません」というフレーズです。ロッキード社による贈賄疑惑の解明のため、1976年2月16日に衆議院予算委員会で証人喚問が行われました。証人として召喚されたのは、当時「財界のドン」と呼ばれた実業家の小佐野賢治氏(国際興業グループ創業者)でした。野党から厳しい追及を受けた小佐野氏は、答えに窮するたびに「記憶にございません」と繰り返し発言し、肝心の質問に正面から答えない姿勢を貫きました。
要するに「覚えていない」という意味の丁寧な言い回しですが、証言拒否や偽証罪を回避しつつ追及をかわす方便として使われたのです。この発言はテレビや新聞で大きく報じられ、当時の世相を反映する象徴的な言葉となりました。
小佐野氏の「記憶にございません」はその年の流行語となり、彼の強烈なキャラクターと相まって日本中に知れ渡りました。実際、子供やサラリーマンの間でも困ったときの合言葉のように「記憶にございません」が連発され、大流行したと言われています。本来は堅い国会答弁の一節でありながら、そのあまりのインパクトゆえに庶民の日常会話にも皮肉やジョークとして浸透したのです。
現代での使われ方:政治家の常套句として定着
「記憶にございません」は、1976年当時の流行にとどまらず現在まで語り継がれるフレーズとなっています。以後も国会答弁や記者会見で、政治家や官僚が不祥事を追及された際によく使う常套句として定着しました。事実、「ロッキード事件以来使われる常套句だ」と現代の国会でも引用されるほどで、権力者が都合の悪い質問をはぐらかす際の代名詞的なフレーズになっています。
例えば2022年には山際大志郎大臣(当時)が記者会見で「覚えていない」「記憶が定かでない」などと繰り返し、「結局また記憶にないで逃げるのか」と批判される場面もありました。このように、「記憶にございません」は今なお日本の政治文化における皮肉な遺産として生き続けていると言えるでしょう。
なお、小佐野氏自身の発言記録を厳密にたどると実際には「記憶はございません」「記憶がありません」と答弁しており、「記憶にございません」という表現は公式には残っていないそうです。しかし語感のインパクトからか、一般には「記憶にございません」で記憶され定着しました。2019年には三谷幸喜監督が『記憶にございません!』というタイトルの映画を公開するなど、このフレーズはもはや昭和を代表する有名な言い回しとして半ば伝説化していると言えるでしょう。
「フィクサー」
背景・意味:裏で糸を引く黒幕の登場
1976年には「フィクサー」というカタカナ英語も大きな話題になりました。フィクサー (fixer) とは英語で「物事を取り仕切る調停役」を指し、とりわけ不正工作や裏取引を陰でお膳立てする黒幕的存在を意味します。それまで日本では耳慣れない言葉でしたが、この年のロッキード事件をきっかけに一躍有名になりました。当事件の捜査で浮かび上がったキーパーソンの一人が、戦後裏社会で暗躍してきた右翼の大物児玉誉士夫氏です。
児玉氏はロッキード社からの資金を日本側に流す仲介役を担ったとされ、事件発覚後に逮捕こそ免れたものの、「政財界のフィクサー」としてその名が知られる存在でした。実際、児玉氏はCIAや暴力団とも繋がりを持ち、政界工作に通じていた人物であり、まさに裏で事態を「fix(フィックス)=固定・調整」する人=フィクサーの典型だったのです。
ロッキード事件では児玉氏の他にも政界工作に関与した人物が複数浮上し、「誰が黒幕か?」と連日報じられました。その中でフィクサーという言葉が盛んに使われ、日本のメディアや世間に定着していきます。当時の報道によれば、児玉氏は非常に口が堅く秘密主義で知られ、彼が病に倒れたことで真相解明が困難になったとも言われました。それだけに彼のような暗躍者にスポットが当たり、「フィクサー」という言葉が流行語となったのです。
現代での使われ方:定着した裏社会用語
「フィクサー」は1976年当時に生まれた新顔の流行語でしたが、その後は日本語のボキャブラリーに定着し現在に至っています。国語辞典にも「事件などを陰で調停・処理する人。多くは悪い意味で使われる」と明記され、政治や企業スキャンダルの解説で使われるのはもちろん、映画のタイトル(※ジョージ・クルーニー主演の米映画『フィクサー』など)にもなるなど一般にも浸透しました。
現代でも「政界のフィクサー」「業界のフィクサー」といった言い回しで、表には出ない影の実力者を指す際に用いられています。ただし、裏取引を行う黒幕という否定的ニュアンスで使われることがほとんどであり、肩書きとして表立って名乗るような性質の言葉ではありません。
どちらかと言えば昭和の汚職事件を想起させるレトロな響きもありますが、近年でも政財界の隠れた調整役を語る上で欠かせない単語となっています。
「ピーナッツ」
背景・由来:賄賂の暗号「ピーナッツ」
1976年の流行語には、一見ほのぼのとした響きながら実は深刻な汚職事件と結びついたものもありました。それが「ピーナッツ」です。ロッキード事件の捜査過程で、贈賄の証拠としてある領収書が明るみに出ました。その領収書には金額を示す隠語として「ピーナッツ100個」などと記されており、東京地検特捜部の調べで「ピーナッツ1個」が現金100万円を意味することが判明したのです。
アメリカの上院・チャーチ委員会にロッキード社の監査法人(アーサー・ヤング)から提出された資料に、この「ピーナッツ」を受領した旨の記載があり、日本でもそれが報じられて大騒ぎとなりました。
なぜ「ピーナッツ(落花生)」が賄賂の暗号に使われたのか定かではありませんが、英語で小額の金銭を「peanuts」と呼ぶ表現があることに由来した可能性があります。もっとも1個100万円という設定は決して小額ではなく、総額では何億円もの巨額賄賂でした。その意味では、腐敗した取引を巧妙に糊塗するための滑稽さと悪質さを併せ持った符牒だったと言えるでしょう。この「ピーナッツ」という言葉が報道を通じて一般に知れ渡り、1976年を代表する流行語の一つとなりました。
社会の反響:抗議デモと「ピーナッツ神輿」
ロッキード事件で明るみに出た「ピーナッツ」は、当時の世相を象徴するキーワードとして人々の記憶に刻まれました。怒り狂った市民たちは巨額賄賂への抗議の意を込め、なんと巨大なピーナッツ型の神輿(みこし)を担いでデモ行進を行ったのです。その神輿には「ロッキード糾弾」「団結」といったスローガンが掲げられ、デモ隊は実際にピーナッツの模型を担いで練り歩きました。
また児玉誉士夫氏や小佐野賢治氏の事務所には、連日押しかけた群衆から本物のピーナッツの豆が投げつけられる事態にもなりました。市民の怒りが具体的な形(それも落花生というユニークな形状)となって表出したこの出来事は、日本社会における抗議文化の一幕として語り草になっています。賄賂の符丁であると同時に、庶民から権力者への痛烈な皮肉として「ピーナッツ」が機能した瞬間でした。
現代での使われ方:今では死語となった隠語
「ピーナッツ」が流行語になった当時、世間では「ピーナッツ=賄賂」という認識が広まりました。しかしこの言葉はあくまで特定の事件に紐づいた一過性の符号だったため、その後の日常語としては定着していません。
現在、一般に「ピーナッツ」といえば単にお菓子のピーナッツやスヌーピーで有名な漫画『Peanuts』を連想する程度で、賄賂や金銭を意味することはありません。つまり「ピーナッツ」が賄賂の隠語として使われたのはロッキード事件当時だけで、その意味で現代ではほぼ死語と言ってよいでしょう。
ただし、当時を知る人々にとっては非常にインパクトの強い言葉であり、昭和史の中で「ピーナッツ」と言えば「あの汚職事件の暗号だね」と通じる場合もあります。近年でもニュースや書籍でロッキード事件が振り返られる際には、「ピーナッツ」の語が登場し解説が添えられることがあります。このように、「ピーナッツ」は現在こそ一般には使われなくなったものの、昭和の世相を語る上で欠かせない歴史的流行語の一つなのです。
その他昭和51年の流行語あれこれ
1976年には上述のほかにも、ロッキード事件に関連していくつかの印象的な言葉が人々の口にのぼりました。その代表的なものを以下に紹介します。
- 「ハチの一刺し」 – ロッキード事件の裁判で、田中角栄元首相の元秘書・榎本敏夫氏の前妻だった榎本三恵子さんが法廷で証言した際、自らの心境を「ハチは一度刺したら死ぬ」とたとえました。権力者に不利な証言を行うことで自分も滅びるかもしれないという覚悟を示したこの言葉は、「ハチの一刺し」として当時大きな話題となりました。巨悪に敢然と立ち向かう一般人の勇気と不安を象徴するフレーズとして人々の記憶に残ったのです。
- 「よっしゃよっしゃ」 – 首相在任中の田中角栄氏が全日空への大型機購入工作を頼まれた際に発したとされる言葉です。「よっしゃ、よっしゃ(=よし、任せろ)」と二つ返事で請け合ったというエピソードが伝えられ、田中氏の影響力の強さを物語るものとして語られました。ただし、田中派の秘書だった佐藤昭子氏は「越後(新潟)の人間はこんな言い方はしない」と否定しており、真偽は定かではありません。それでも庶民の間では「権力者が裏で事を引き受ける様子」を示す俗語的なネタとして扱われ、1976年当時の流行語の一つに数えられています。
まとめ:言葉に刻まれた昭和51年の世相
1976年(昭和51年)は、流行語の面から見るとロッキード事件一色の年でした。不正にまみれた政財界を象徴する数々のフレーズがこの年に生まれ、流行し、そして一部は今なお語り継がれています。「記憶にございません」のように現代の政治風土にも影響を及ぼすものもあれば、「ピーナッツ」のように当時限りで消えた言葉もあります。
しかし、いずれの言葉も昭和51年という時代の空気を如実に物語る歴史の証言です。当時のニュースや社会の雰囲気を反映して生まれた流行語をひも解くことで、読者の皆さんも昭和の一幕を追体験できたのではないでしょうか。
当時の流行語は単なる言葉遊びではなく、社会の出来事と人々の思いが凝縮された時代の産物なのです。昭和の流行語に触れることで、日本の歴史と文化への理解が一層深まることでしょう。