昭和41年(1966年)は、日本が高度経済成長に沸き、文化や娯楽の面でも大きな盛り上がりを見せた年です。
この年には若者文化やテレビ番組、お笑いブーム、さらには社会現象から、さまざまな流行語が生まれました。
それぞれの言葉がどのような背景で流行し、どんな由来を持ち、当時の出来事とどう関係していたのか、そして現代ではどうなっているのかを見ていきましょう。
音楽・若者文化の流行語
グループ・サウンズ(GS)
1966年といえば、若者の間でエレキバンドブームが巻き起こった年です。日本の音楽シーンでは「グループ・サウンズ」(略してGS)と呼ばれるバンド形態が大流行しました。
ザ・スパイダースやブルーコメッツ、タイガースといったグループが登場し、エレキギターに日本語の歌詞を乗せて演奏するスタイルが人気を博しました。特に6月にはビートルズが来日公演を行い(日本武道館での熱狂的なライブは失神者が出るほどでした)、その影響もあってGSブームは一気に加速しました。
「グループ・サウンズ」という言葉自体は和製英語で、その起源には諸説あります。一説によれば、エレキバンドの先駆者寺内タケシが記者にジャンルを尋ねられた際、「グループサウンドだ」と答え、「単数形では変だからグループ・サウンズにしよう」と提案したともいわれます。いずれにせよ、日本発の呼称として定着し、若者たちはこぞって「GS」と呼びました。
当時の社会は高度成長で活気づいており、若者文化も明るいムードに包まれていました。エレキサウンドに乗せた日本語の歌は新鮮で、「君もGSを聴いてる?」「あのバンドはGSだね」などと会話にのぼるほど流行したのです。現代ではグループ・サウンズという言葉はもっぱら当時の音楽ムーブメントを指す懐かしの用語です。現在のバンドを指して使われることはありませんが、60年代を象徴する音楽ジャンル名として音楽史に残っています。
「こまっちゃうな」
1966年はアイドル歌謡曲にもヒットが生まれました。その代表が、山本リンダのデビュー曲「こまっちゃうナ」(正式表記は小さい「ナ」)です。16歳の新人歌手だった山本リンダが舌っ足らずな可愛い歌声で「こまっちゃうナ」と歌い上げ、一躍ティーンのアイドルとなりました。この曲は1966年9月に発売されるとたちまち大ヒットし、累計で70万枚以上(100万枚近く)を売り上げる大ブームとなりました。翌年の『NHK紅白歌合戦』にも出場し、この曲を披露しています。
曲名にもなったフレーズ「こまっちゃうナ」は、「困っちゃうなあ」という意味のごく普通の言い回しですが、山本リンダが曲中で見せる仕草や可愛らしい発音も相まって、この年の流行語になりました。当時は女子中高生がデートの話題などで冗談めかして「もう、こまっちゃうな!」と山本リンダを真似することもあったようです。
この言葉の由来には興味深いエピソードがあります。作曲家の遠藤実が新人の山本リンダに「ボーイフレンドはいるの?」と尋ねたところ、彼女が思わず「そんなのリンダ、困っちゃうな」と答えたことが曲作りのヒントになったといいます。つまり、「こまっちゃうナ」というフレーズ自体、山本リンダ本人の口から出た言葉が元になっていたのです。このような背景もあって曲のタイトルに採用され、歌のキャッチーな決め台詞として大流行しました。
その後、山本リンダはセクシー路線の歌手へ転身していき、「どうにもとまらない」など別の代表曲で知られるようになります。ただ「こまっちゃうナ」のフレーズは今でも昭和40年代のアイドル歌謡を語る上で欠かせない象徴的な言葉です。日常会話で使われることは少ないものの、「あの頃こんな流行語があったね」と懐かしく振り返られることが多いでしょう。
「しあわせだなぁ」
もう一つ、歌謡曲から生まれた流行語があります。俳優・歌手として人気絶頂だった加山雄三の大ヒット曲「君といつまでも」の中で語られる「しあわせだなぁ」という一言です。曲の間奏部分で加山雄三が恋人に語りかけるように「しあわせだなぁ、僕は君といるときが一番幸せなんだ」と呟くこのセリフは、当時若者から大人まで幅広い世代に強烈な印象を残しました。
「君といつまでも」は昭和40年末に発売され、翌1966年にかけて空前の大ヒットとなった曲です。レコード売上は300万枚を超え、第8回日本レコード大賞では特別賞を受賞しています。この大ヒットとともに、劇中のように愛する人へ「しあわせだなぁ」と語りかけるフレーズが世間に浸透し、流行語にもなりました。
実はこの「しあわせだなぁ」というセリフは、レコーディング中に加山雄三がアレンジの美しさに感激して思わず漏らした一言だったそうです。プロデューサーはその自然なひと言を気に入り、曲の間奏にそのまま入れてしまいました。加山雄三本人の素直な感嘆がそのままレコードに刻まれたことで、聴衆の心にも強く残る名ゼリフとなったわけです。
当時、このセリフはテレビや日常会話でもしばしばパロディにされました。コメディ番組でモノマネ芸人が甘い声で「しあわせだなぁ」と真似をしたり、恋愛ドラマの中で引用されたりするほど有名になったのです。現在でもこのフレーズは昭和を代表するロマンチックな言葉として語り継がれています。若い世代でも、昭和のヒット曲特集やカラオケで「君といつまでも」に触れれば、「しあわせだなぁ」というセリフに出会うでしょう。日常で使うにはやや照れくさいですが、古き良き昭和の愛の表現として今も輝きを放つ流行語です。
テレビ番組・キャラクター発の流行語
「シュワッチ」
昭和41年はテレビ番組からも数多くの流行語が生まれました。その代表格が、特撮ヒーロー『ウルトラマン』の決めゼリフ(…のように聞こえる掛け声)「シュワッチ」です。1966年(昭和41年)7月にカラー特撮ドラマ『ウルトラマン』の放送が開始されると、子どもたちの間で怪獣ブーム・ヒーローブームが巻き起こりました。空想特撮シリーズとしては前年の『ウルトラQ』に続く作品でしたが、ウルトラマンは赤と銀のヒーローが登場する画期的な内容で、最高視聴率は30%を超える人気番組となりました。
ウルトラマンと言えば「シュワッチ!」と雄叫びをあげて空に飛び去るシーンが思い出されます。子どもたちは友達同士の遊びでウルトラマンごっこをし、「シュワッチ!」と叫びながらポーズを真似したものです。実際には、ウルトラマンの劇中で明確に「シュワッチ」という言葉を発声している場面はありません。
劇中の掛け声は「ヘアッ!」「デアッ!」といった聞き取りにくい発音でしたが、視聴者にはそれが「シュワッチ」と聞こえたため、雑誌や漫画でそのように表現されるようになりました。その「シュワッチ」という文字表現を初めて用いたのは漫画家の赤塚不二夫だとも言われています。つまり、子どもたちの間で広まったこの掛け声は、ファンが生み出したいわば“空耳”の流行語だったのです。
いずれにせよ、「シュワッチ」はウルトラマン=シュワッチと国民の大多数が信じ込むほど深く浸透しました。その後の世代にも脈々と受け継がれ、ウルトラマンシリーズが長く愛されている現在でも、「ウルトラマンの掛け声といえばシュワッチ」が定番となっています。半世紀以上経った今でも特撮ヒーロー番組の話題になるとこの言葉が出てくるほどで、「シュワッチ」はもはや二世代にわたり支持される伝説的な流行語と言えるでしょう。
「バーハハーイ」
テレビの子供向け番組から生まれた流行語として忘れてはならないのが、「バーハハーイ」です。一見不思議なこの言葉は、日本テレビ系の幼児番組『木馬座アワー・カエルのぼうけん』に登場するカエルのキャラクター「ケロヨン」のお別れの挨拶でした。ケロヨンは着ぐるみ人形劇の主人公で、毎回番組の終わりに観客に向かって「バーハハーイ!」と独特の調子で手を振りながら別れの言葉を告げました。このコミカルな挨拶が子供たちに大ウケし、番組の人気とともに大流行したのです。
「バーハハーイ」は元々「バイバイ(bye-bye)」をもじった幼児語のようなものですが、ケロヨンの甲高い声で伸ばす発音が特徴的でした。子供たちは友達との別れ際にふざけて「バーハハーイ!」と言い合ったり、親も子供に向かって「ケロヨンだよ、バハハーイ!」と真似してみせたりと、一種の流行遊び言葉になりました。
ケロヨン自体も子供たちのスーパースター的存在で、関連グッズが飛ぶように売れました。1967年にはケロヨンのビニール人形が発売から2か月で30万個も売れるほどの人気ぶりで、「ケロヨン音頭」というレコードまで発売され子供向け音頭の定番となったほどです。これらのブームを支えたのが、やはりあの「バーハハーイ」というキャッチーな挨拶でした。
現在、この言葉を覚えているのは昭和40年代に子供時代を過ごした人たちが中心でしょう。若い世代にはさすがに通じませんが、当時を知る人に「ケロヨンの挨拶覚えてる?」と聞けば「ああ、バハハーイね!」と思い出す人も多いはずです。半世紀前の子供向け番組の流行語ですが、その古風さが逆に平成・令和世代には新鮮に映ることもあるかもしれません。
「〜ダヨーン」
漫画原作のテレビアニメからも流行語が誕生しました。赤塚不二夫のギャグ漫画『おそ松くん』が1966年に初めてアニメ化され、そこで登場人物たちのユニークな口癖が広く知られるようになったのです。なかでも、登場キャラクターの一人「デカパン」が語尾につける「〜ダヨーン」という間延びしたセリフ回しは強烈で、子供たちが面白がって真似をしました。
デカパンは大きなパンツを履いた中年男性のキャラクターで、何を話すにも「〜だヨーン」と独特の語尾をつけるのが癖です。例えば「今日はいい天気だヨーン」「腹が減ったダヨーン」といった具合で、間の抜けた響きが笑いを誘いました。当時の子供たちは学校や遊びの中で「〜ダヨーン」を真似て冗談を言い合い、大人から「変な喋り方をしないの!」と笑われる、そんな風景もあったようです。
もともと「ダヨーン」という言葉自体に意味はなく、デカパンのキャラクター性を表すためのナンセンスな語尾でした。しかしそれが流行語になる背景には、昭和40年代の漫画・アニメ文化の広がりがあります。『おそ松くん』では他にもイヤミの「シェーッ!」というポーズ付きの叫びが大流行しており(こちらも国民的流行語になりました)、「ダヨーン」もその一端として子供たちに浸透しました。実際、アニメ放送開始の1966年頃には「シェー」に次いで「ダヨーン」もマンガ雑誌や子供向け記事で取り上げられていたのです。
現代では「シェー」は昭和を代表するギャグとして今なお有名ですが、「ダヨーン」はそれに比べると知名度が低くなっています。それでも2015年に平成版『おそ松さん』が放送された際には、デカパンとダヨーン(キャラクター名にもなっています)が再登場し、往年のファンを喜ばせました。若いアニメファンの中にもそこで初めて「ダヨーン」の存在を知った人もいるようです。日常語として使われることはまずありませんが、「〜ダヨーン」は昭和のギャグアニメの空気を伝える懐かしの流行フレーズとして記憶されています。
漫才・コメディから生まれた流行語
「いいじゃナーイ」
1960年代半ばには、テレビの演芸ブームも起こりました。漫才やコントを披露する芸人たちが茶の間の人気者となり、そのギャグが次々と流行語になったのです。その一つが、漫才コンビ晴乃チック・タックの「いいじゃなぁ〜い」というセリフでした。チック・タックは1966年のNHK新人漫才コンクールで優勝し、一躍スターダムにのし上がった若手漫才師です。彼らは当たりギャグとして「どったの?」「いいじゃなぁ〜い」を漫才の中で連発し、アイドル並みの人気を博しました。
この「いいじゃナーイ」は、日常の「いいじゃない(=別に構わないだろう)」を語尾を上げた独特のイントネーションで言ったものです。チック(高松しげお)とタック(晴乃ピーチクの弟子)は洒落たスーツ姿で漫才を行い、相手を軽くたしなめるように「いいじゃなぁ〜い」と伸ばす台詞で笑いを取りました。その軽妙さがお茶の間にもウケて、視聴者も真似するようになりました。「細かいことはいいじゃないか!」というニュアンスで、会社や学校でも冗談交じりに使われたほどです。
この言葉が流行した背景には、テレビ演芸の第一次ブームがあります。戦後の寄席文化をテレビが取り入れ、漫才師やコメディアンが全国区の人気者になった時代でした。晴乃チック・タックはその先駆け的存在で、彼らの「いいじゃナーイ」は1960年代を代表する漫才ギャグとして語り継がれています。
しかしチック・タックは1969年にコンビを解消し、その後このギャグを耳にする機会も減っていきました。現代では当時を知る人以外には通じない死語に近いかもしれません。とはいえ、お笑いの歴史においては伝説的なフレーズであり、昭和の漫才師たちの軽妙さを今に伝える流行語と言えるでしょう。
「びっくりしたなぁ、もう」
同じく昭和41年、もう一つ有名なお笑いギャグが流行語になりました。それがコントグループ「てんぷくトリオ」の三波伸介(初代)による「びっくりしたなぁ、もう!」です。テレビや舞台でドタバタ喜劇を繰り広げていた三人組(三波伸介、伊東四朗、戸塚睦夫)の中で、リーダー格の三波伸介が放つこの決めゼリフは爆発的な笑いを生み、瞬く間に全国に広まりました。
「びっくりしたなぁ、もう」は、驚いたときに思わず出る「びっくりしたなあ!」に、呆れや照れ臭さを込めて「もう〜!」を付け加えた表現です。三波伸介は舞台上で想定外のハプニングが起こった際に、このフレーズをとっさに発し観客の爆笑をさらいました。それ以来トリオの持ちネタとして多用されるようになったとされます。実際には、このギャグ誕生には諸説あり、幼い息子の口癖を真似たという説や、共演者の演技ミスに驚いて出たアドリブがウケたという説があるようです。いずれにせよ、三波伸介のコミカルな表情と相まって観客の心を掴み、彼の代名詞となりました。
テレビ番組でもこのセリフは頻繁に取り上げられました。三波伸介自身が出演するコメディ番組や座談番組で披露したのはもちろん、他の芸人がギャグとして引用することもあったほどです。お茶の間でも、何かに驚いた家族が思わず「びっくりしたなぁ、もう!」と冗談めかして言う光景が見られました。当時としては老若男女に通じるユーモラスな決まり文句だったのです。
三波伸介は後に演芸番組『笑点』の司会者となり、「昭和最後の喜劇王」とも称されました。その彼の放った「びっくりしたなぁ、もう」は間違いなく昭和を代表する流行語の一つです。令和の今となっては、これを日常で使う人はほとんどいません。うっかり若い人の前で使うと通じずにポカンとされてしまう“死語”ではあります。しかし昭和を懐かしむバラエティ番組などでは今でも取り上げられることがあり、そのたびに当時を知る世代は「昔流行ったねぇ」と笑みを浮かべています。
「見通し暗いよ」
1966年には世相を風刺するようなお笑いのギャグも流行しました。その例が、コメディアン東京ぼん太の「見通し暗いよ」です。東京ぼん太(本名・中山孝一)は、唐草模様の風呂敷を背負った風貌で漫談(スタンダップコメディ)を披露して人気を博した芸人です。彼は栃木訛りの滑稽な口調で世間をぼやくスタイルを得意とし、「夢もチボー(希望)も無いネ」などといったネガティブなギャグで笑いを取りました。「見通し暗いよ」もそのレパートリーの一つで、「この先真っ暗だ」という自虐的なボヤキを面白おかしく言ったものです。
当時は高度成長とはいえ、社会不安や事件もありました。1966年には冒頭から旅客機の墜落事故が相次ぎ、人々に衝撃を与えています。またベトナム戦争の泥沼化や国内の公害問題など、将来への不安材料も報道され始めた時期でした。東京ぼん太の「見通し暗いよ」というフレーズは、そうした世相をコミカルに代弁するものとして共感と笑いを誘ったのかもしれません。「先行きが不透明だけど、まぁ酒でも飲んで頑張りましょうや」といったぼん太節のオチで、観客はクスッとしつつも妙に納得したことでしょう。
この言葉は彼が出演するテレビ番組やレコードのネタとして広まりました。実際、東京ぼん太は1966年に「マアいろいろあらァな」というコミカルソングのレコードを出しており、その中でも世の中の出来事に対して「見通し暗いよ」と嘆くセリフが出てきます。当時の観客はそれを流行語として口真似し、「うちの会社も見通し暗いよ、なんてね」などと冗談めかして使ったようです。
しかし、この「見通し暗いよ」は他の流行語と比べるとやや渋い印象もあり、流行の寿命は長くありませんでした。東京ぼん太自身も1980年代には亡くなり、その芸風も次第に忘れられていきます。現代ではこのフレーズを知る人は少なく、当時の時代背景とともに語られることがほとんどです。ただ、平成以降の不景気な時代には皮肉にもこの言葉が状況を言い表すものとして再評価されたこともあります。令和の今でも、何かと先行き不安なニュースに接するたび「いやはや、本当に見通し暗いよ…」と昭和のギャグを呟く年配の方がいるかもしれません。それほどにこの言葉は昭和40年代の世相を映した流行語だったのです。
社会の出来事から生まれた流行語
新三種の神器(3C)
昭和41年、日本は経済面でも大きな転換期を迎えていました。いざなぎ景気と呼ばれる好景気が始まり、人々の収入が増えて耐久消費財が一気に普及し始めたのです。この頃、家庭で「ぜひ手に入れたい」と憧れの的になった3つの耐久消費財がありました。それが「新三種の神器」、別名「3C」と呼ばれたものです。
「三種の神器」とは元々は皇室に伝わる三つの宝物のことですが、戦後日本では1950年代後半に「白黒テレビ・電気洗濯機・電気冷蔵庫」が高度成長の象徴として「三種の神器」と呼ばれました。1960年代中盤になると、多くの家庭がそれら家電を手に入れ始め、次なる憧れが生まれます。それがカラーテレビ、クーラー(エアコン)、そして自家用車(カー)の3つでした。頭文字がいずれもCで始まることから「3C」とも称され、この3つをまとめて「新三種の神器」とマスメディアが盛んに宣伝したのです。
当時の日本では、1964年の東京オリンピックを契機にカラーテレビの販売が急増し始め、1966年には白黒テレビからカラーへの買い替え需要が本格化していました。また、この年トヨタ「カローラ」や日産「サニー」といった大衆車が発売され、自動車が一般家庭にも手が届く存在になりつつありました。さらに夏場の暑さ対策として、家庭用クーラー(クーラーは当時は冷房機能限定でエアコンとも言われました)が高価ながらも徐々に売れ始めました。庶民は「いつかうちも3Cを揃えたいものだ」と夢見ていたのです。
「新三種の神器」という言葉は、このような時代の消費文化を端的に表す流行語でした。新聞や雑誌でも頻繁に使われ、誰もが意味を知る言葉となりました。当時の世相を反映する出来事としては、1966年に日本の総人口が1億人を突破したことが挙げられます。人口1億人時代に入り生活水準も向上しつつある中で、「3C」は豊かさの新指標として語られたのです。
その後、1970年代以降もこの「○○の三種の神器」という言い回しはキャッチコピーとしてたびたび使われました。例えば1970年代末には「クーラー・カラーテレビ・自動車」に代わる新3Cとして「電子レンジ(Cooker)・別荘(Cottage)・集中暖房(Central heating)」が提唱されたり、2000年代にはデジタル家電の普及で「デジタル三種の神器(デジカメ・DVDレコーダー・薄型TV)」と呼ばれたりしました。このように「三種の神器」という表現自体は今も形を変えて残っていますが、「新三種の神器」が指すカラーテレビ・クーラー・マイカーという組み合わせは、まさに昭和40年代ならではのものです。
現代の日本では3Cすべてが当たり前の生活必需品となり、当時これらが憧れの対象だったことに驚く若者もいるでしょう。しかし、昭和41年当時の人々にとって「新三種の神器」という言葉は、明るい未来と豊かな暮らしへの希望を象徴するキラキラした流行語だったのです。「いつかはうちにもカラーテレビが来るかな?」「マイカーでドライブできたらいいね」――そんな会話が弾む家庭の風景が目に浮かぶようです。
おわりに
昭和41年(1966年)に流行した言葉やフレーズを振り返ると、当時の日本の空気感が生き生きと伝わってきます。高度成長で物質的に豊かになり、ビートルズやテレビアニメといった新しい文化に熱狂し、人々の生活は活気に満ちていました。その一方で、お笑い芸人が庶民の本音を代弁するようなボヤキも流行し、社会を映す鏡となっていたことが分かります。
これら流行語の多くは、今では日常で使われることはなくなりました。しかし、「グループ・サウンズ」や「シュワッチ」のように、その言葉を聞くだけであの時代の熱狂が思い起こされるものばかりです。流行語は一過性のブームかもしれませんが、時に歴史の証人となり、世代を超えて語り継がれる力を持っています。
当時を知る人にとっては懐かしく、知らない世代にとっては新鮮な昭和41年の流行語──それぞれの背景や由来を知ることで、読者の皆さんもあの時代を少しでも追体験できたのではないでしょうか。当時の流行語を楽しみながら学ぶことで、昭和という時代の豊かさと奥深さを感じていただければ幸いです。