1967年(昭和42年)の流行語とその背景

1967年(昭和42年)は、日本が高度経済成長期の真っただ中にあり、社会が大きく変化していた時代です。この年、日本初の「建国記念の日」が制定され、東京都では革新知事の美濃部亮吉氏が誕生するなど、政治的にも新たな動きがありました​。

文化面ではツイッギーの来日によるミニスカートブームや、若者たちの間でのカウンターカルチャー(対抗文化)の台頭が見られました。こうした社会・文化の変化の中で、人々の会話に登場する新語・流行語も生まれています。

本記事では、1967年に流行語となった主な言葉やフレーズを取り上げ、それぞれの意味や背景、由来、当時の出来事との関連性、そして現代での扱われ方について解説します。

1967年の主な流行語とその背景

1967年に話題となった流行語には、政治・社会を反映したものから、若者文化や芸能にまつわるものまで幅広いジャンルの言葉が含まれます​。以下に主な流行語を挙げ、その詳細を見ていきます。

ボイン(巨乳を指す俗語)

「ボイン」は、大きなバストを指す俗語です。当時としてはやや際どいこの言葉が広まるきっかけは、1967年に放送された深夜番組『11PM』での出来事でした。司会者の大橋巨泉が番組内で女優の朝丘雪路さんの胸を「ボイン」と表現し、「ボインちゃん」という愛称で呼んだことから、一気にお茶の間に浸透しました。当時はテレビが家庭に普及しつつあり、深夜番組とはいえ大胆な発言が注目を集めたのです。

「ボイン」はそのユーモラスな響きも手伝って1967年の流行語となり、同年には他にも「フーテン」「ヒッピー」「アングラ」「蒸発」などとともに世相を反映する言葉として挙げられました。その後、1969年には落語家・歌手の月亭可朝がコミックソング『嘆きのボイン』をヒットさせています。

このように「ボイン」はお色気と笑いを象徴する言葉として一世を風靡しましたが、現代ではかなり懐かしい表現となりました。現在では豊かな胸を表現する言葉として「巨乳」などが一般的で、「ボイン」は昭和の香りを感じさせるレトロな俗語と言えるでしょう。

核家族(近代的な小家族)

核家族」は、夫婦と未婚の子どもだけから成る小規模な家族形態を指す言葉です。もともとはアメリカの人類学者ジョージ・マードックが提唱した nuclear family という概念で、「すべての家族の基礎単位」とされる家族モデルの和訳として生まれました。日本においてこの言葉が流行語になる背景には、1960年代後半の高度経済成長による都市化生活様式の変化があります。

戦前の日本では大家族・三世代同居が一般的でしたが、戦後の経済成長に伴い地方から都市へ人々が移り住み、夫婦と子どもだけで暮らす家庭が急増しました。1967年頃には、こうした家族形態の変化が広く認識され、「核家族」という言葉が新聞や雑誌で頻繁に使われるようになります。例えば当時の世論では、家族の絆のあり方や育児・教育の問題などが議論され、「核家族化」は社会現象として注目されました。

「核家族」という言葉自体はその後も定着し、現代でも日常的に使われています。ただし近年は単身世帯の増加多様な家族の形も進んでおり、「核家族」は家族形態の一分類として教科書などで説明される言葉になっています。流行語というよりは、現在ではすっかり一般用語として定着したと言えるでしょう。

対話(「対話路線」の象徴)

「対話」は一見するとごく普通の日本語ですが、1967年には特別な響きを持って受け取られました。それは、この年に誕生した美濃部亮吉都知事のスローガンとして「対話」が掲げられたからです。美濃部氏は1967年の東京都知事選挙で当選し、戦後初の革新自治体首長として注目されました。彼の都政は「都民との対話」や「住民参加」を重視する姿勢を鮮明にし、従来の上意下達の政治とは一線を画すものだったのです​。

実際、昭和42年4月に誕生した美濃部都政は「対話の都政」と呼ばれ、市民と膝を交えて意見を聞く場を設けるなど開かれた政治を目指しました。このため「対話」という言葉が政治的キーワードとしてクローズアップされ、世間でも「対話路線」「対話外交」などのフレーズが語られるようになります。当時の佐藤栄作首相がベトナム戦争への対応で強硬姿勢をとる中で、美濃部都政の柔軟な対話重視は対照的でした​。

「対話」は現在でももちろん日常語ですが、1967年当時は革新的な政治姿勢の象徴として語られた点が特筆されます。現代の視点で振り返ると、「対話」に新鮮さを感じた時代があったこと自体が興味深いですね。今では行政や外交でも当たり前に使われる言葉ですが、その背景には昭和42年の社会的インパクトがあったのです。

戦無派(戦争を知らない世代)

戦無派(せんむは)」とは、第二次大戦をまったく経験していない世代を指す言葉です。終戦後に生まれ、戦時中の苦労や体験を持たない若者たちを、戦前派・戦中派・戦後派といった従来の世代区分になぞらえて呼んだものです​。いわば「戦争を知らない子供たち」世代ですね。

1967年当時、終戦(1945年)から約22年が経過し、ちょうど大学生や新社会人の中にこの“戦争を全く知らない世代”が増えてきた時期でした。戦中派の大人たちから見ると、戦無派の若者は戦争体験による価値観の共有がなく、どこか能天気に映ることもあったようです。また逆に若者世代は大人たちの古い考え方に反発し、新しい文化や思想を模索していました。このギャップが「戦無派」という言葉の背景にあります。

「戦無派」は主に当時の社会評論やマスコミで用いられた言葉で、ベトナム反戦運動など世界的な反戦ムードの中、日本の若者たちの平和ボケ(良くも悪くも戦争を知らない感覚)を表現する意味合いもあったと考えられます。現代では「戦無派」という表現自体はあまり使われませんが、戦争体験の有無による世代間の感覚差というテーマは、その後も度々議論に上ります。平和な時代に育った世代が増えた今、「戦無派」はむしろ当たり前になり、歴史教育の重要性が叫ばれるゆえんとも言えるでしょう。

爆破狂(爆発への狂的熱中?)

「爆破狂」(ばくはきょう)は、直訳すれば「爆破(爆発)に狂う人」という非常に物騒な響きの言葉です。1967年当時、この言葉が流行語トップ10に挙げられているのは少々異色ですが​、背景にはおそらく社会の不安感や事件報道があったのでしょう。

1960年代後半は、世界的にはベトナム戦争の激化で連日「北爆(北ベトナムへの爆撃)」のニュースが飛び交い、国内でも学生運動や過激派予備軍の台頭が始まりつつある時期でした。実際に1967年前後の日本で爆弾事件が多発していたわけではありませんが、米軍機墜落事故や爆破予告事件などが報じられ、人々に「爆発物への恐怖」が広がっていた面がありました。また怪獣映画ブームで街中に怪獣や爆破シーンが溢れたことを面白おかしく表現した可能性もあります(当時はガメラなどの怪獣が次々登場し、「120匹の怪獣が異常発生」と揶揄されたほどでした)。

「爆破狂」という言葉自体は、具体的な人物や事件名ではなく社会風刺的な流行語として登場したようです。例えば「爆破狂時代」などといった表現で、何でも爆発に訴える風潮への皮肉だったのかもしれません。とはいえ定着した言葉ではなく、一過性の流行語に留まりました。現代ではほとんど耳にしない言葉であり、当時を象徴するブラックユーモア的な流行語と言えるでしょう。

蒸発(人が突然いなくなること)

「蒸発」は本来、水が熱せられて気体になる物理現象を指す言葉ですが、1967年頃から人が突然行方不明になる意味で使われるようになりました​。例えば「会社の金を持ち逃げして蒸発した」や「夫が蒸発してしまった」などと言えば、「姿をくらました」「失踪した」という意味になります。当時、この比喩的な使い方が世相を反映する流行語になりました。

この背景には、社会の急激な変化によるストレス事件の多発が考えられます。高度成長に伴い都市へ出てきたものの生活に行き詰まった人が失踪するケースや、家庭問題から家出する人が増え、「蒸発」というドラマチックな言葉で語られました。また1967年には今村昌平監督がドキュメンタリー調の映画『人間蒸発』を発表しています。これは婚約者が失踪した女性が相手を探すという内容で、現実の失踪事件を追った作品でした。映画のタイトルにもなったことで、「人間が蒸発する」という表現が一層クローズアップされた面もあります。

現代でも「突然いなくなる」ことを「蒸発する」と言うことがありますが、少し昔風の言い回しになりました。実際の失踪者問題は現在も存在しますが、言葉としては「失踪」「行方不明」が用いられることが多く、「蒸発」は昭和の時代を感じさせる表現となっています。それでもサスペンス作品やメディアで時折目にすることがあり、当時の社会現象を今に伝える言葉と言えるでしょう。

サユリスト(吉永小百合ファン)

「サユリスト」とは、女優・吉永小百合さんの熱狂的なファンのことを指す愛称です。吉永小百合さんは1960年代に大人気となった清純派女優で、映画や歌で数々のヒットを飛ばしました。彼女の下の名前「さゆり」に、「〜主義者」や「〜愛好家」を意味する英語の接尾辞 -ist(イスト)を組み合わせて作られた造語が「サユリスト」です。

実はこの呼び名自体は1960年代前半(彼女が『キューポラのある街』(1962年)などで人気絶頂だった頃)から徐々に使われ始めていました​。しかし1967年にもなると、吉永小百合さんは20代前半ながら国民的女優として確固たる地位を築いており、その熱心なファン層は相変わらず健在でした。映画会社・日活の専属だった彼女はこの年までに実に76本もの映画に出演し​、大学にも進学するなど才色兼備ぶりが話題になります。彼女を崇拝する男性ファンたちは「サユリスト」と呼ばれ、その一途な思いぶりがメディアでもしばしば取り上げられたのです。

「サユリスト」はアイドルの追っかけの走りのような存在でした。当時としてはファンが特定の愛称で呼ばれること自体が珍しく、新鮮だったと言えます。現代でも「◯◯推し」「◯◯ファン」という言い方はありますが、「サユリスト」のように特別な呼称で呼ばれるファン文化は昭和ならではかもしれません。吉永小百合さん自身は現在でも女優として活躍されており、往年のサユリストたちは今なお彼女を応援し続けています。ただ若い世代にとってはこの言葉は馴染みが薄く、昭和の映画全盛期を物語るエピソード的な用語になっています。

カッコイイ(粋で格好が良いさま)

カッコイイ」は、今や日常語として定着している「格好がいい」をくだけた発音で表現した言葉です。現在は「かっこいいですね!」といったように肯定的な評価を伝える際によく使われますが、1960年代にこの言葉が若者言葉として広まり始めた頃は、まだ新鮮な俗語でした​。語源は「恰好(かっこう)が良い」の略で、実は戦前の軍隊の隠語などでも使われていた記録があります。しかし本格的に一般に広まったのは1960年代で、とりわけテレビや音楽の影響が大きかったとされています。

一説には、コミックバンドのクレージーキャッツ(植木等氏らが所属)がテレビ番組で「かっこいい」を流行らせたとも言われます。また1967年前後は日本の音楽シーンでグループ・サウンズがブームとなり、エレキギターを持ったバンドマンに熱狂する若者が続出しました。彼ら若者は憧れのミュージシャンやファッションを「カッコイイ!」と盛んに口にし、大人たちもその言葉を認知するようになりました。

1967年の流行語トップテンにもこの「カッコイイ」がランクインしており​、当時すでに若者言葉として市民権を得ていたことがわかります。以降、「かっこいい」は年代を超えて生き残った数少ない流行語であり、現代でもごく普通に使われる言葉となりました。昨今では老若男女を問わず「かっこいい」の一言で通じる便利な賞賛表現ですが、そのルーツが昭和40年代にあると知ると、言葉の移り変わりの中での生命力を感じますね。

ヒッピー族(ヒッピー文化に憧れる若者集団)

「ヒッピー族」は、アメリカ発のヒッピー文化にならって自由奔放な生活様式を試みた若者集団を指します。1960年代後半、アメリカでは愛と平和を掲げたヒッピームーブメントが最高潮に達し、1967年の「サマー・オブ・ラブ」に象徴されるように世界的に注目されました。その影響は海を越えて日本にも伝わり、ごく一部の若者たちが長髪・ジーンズにサイケデリック調のファッションというヒッピー風のスタイルで登場するようになります。

日本の「ヒッピー族」は、都市では新宿界隈で見られたり、あるいは長野の山中でコミューン(共同生活村)を作ろうとしたグループなども存在しました。彼らはドラッグ文化やロック音楽、自然回帰志向など、欧米のヒッピーカルチャーに憧れて独自に実践した人々です。もっとも、日本の保守的な社会の中では彼らは非常に特異な存在であり、マスメディアから半ば好奇の目で「ヒッピー族」と呼ばれた面もありました。

実際には、日本においてヒッピー的な生活を送った若者はごく少数で、多くは後述する「フーテン族」のように都会でたむろする程度のものでした​。しかし「ヒッピー族」という言葉は流行語として人々の関心を集め、当時の若者文化のキーワードの一つとなりました。現代では「ヒッピー」は歴史上のムーブメントとして知られていますが、「ヒッピー族」という言い方はあまり聞かれなくなりました。日本におけるヒッピー族のブームは1970年頃までには下火になり、彼らの多くは時代の中で散っていきました。それでも平和と自由を求めた若者文化の象徴として、「ヒッピー族」という言葉は60年代の思い出話によく登場します。

フーテン族(新宿に現れた和製ヒッピー)

「フーテン族」は、上記ヒッピー族と同時期に東京・新宿で現れた和製ヒッピー的な若者集団です​。語源は元々「瘋癲(ふうてん)」と書き、「気がふれた人」や「定職に就かずフラフラする人」を意味する言葉でした。それがカタカナで「フーテン」と表記されることで、どことなく洒落た響きになり、ヒッピーに近いイメージを持つ言葉として使われ始めたのです。

1967年の夏頃、新宿駅東口広場の噴水前の芝生に、長髪にジーパン姿の若者たちが夕方になると集まるようになりまし。彼らは特に目的もなくぼんやりと座り込み、通行人を眺めたりタバコを吹かしたり、中には通りがかりの人に小銭をねだる者もいて、「新宿乞食」と揶揄されることもありました。昼間は芝生でたむろし、夜になると新宿二丁目あたりのスナックに繰り出して簡易ドラッグ(睡眠薬や興奮剤)を試し、ジャズに合わせて踊る――そんな風変わりな生活を送っていた彼らを、世間は「フーテン族」と呼んだのです。

フーテン族は、日本におけるカウンターカルチャーの象徴ともなりました。親世代から見れば「定職にも就かず不良だ」と映り、社会問題視する声もありましたが、当の本人たちは体制や管理に縛られない自由を求めていただけとも言えます。のちに映画『男はつらいよ』シリーズで渥美清さん演じる車寅次郎の異名が「フーテンの寅」となったのは、まさにこの言葉が当時通用していたからでしょう。

しかしフーテン族ブームも長くは続かず、1968年以降の激しい学生運動の時代に突入すると、彼らのようなのんびりした存在は次第に姿を消していきました。流行語「フーテン族」も一過性のもので、現代では昭和40年代の風俗を語る際に出てくる言葉です。ただ、「フーテン」という言葉自体は「フーテンの寅」によって今でも知られており、「フーテン族」は日本独自のヒッピー文化があったことを物語る歴史的な用語と言えるでしょう。

アングラ(アングラ族・アングラ文化)

「アングラ」はunderground(地下)の略で、1967年当時は地下に潜るような反体制的・前衛的文化活動を指す言葉として流行しました。具体的には、公然と日の当たる場ではなくアングラ(地下)的な場で行われる前衛芸術や演劇運動を総称した表現です。

60年代後半の日本では、大学紛争や政治運動と並行して、既成の芸術への挑戦ともいうべきアンダーグラウンド文化が花開きました。小劇場やテント芝居、前衛映画や現代美術、詩の朗読会など、多様なジャンルで実験的表現が行われ、それに熱中する若者たちが存在しました。これらに共鳴した若者集団を指して「アングラ族」と呼ぶこともあり、ヒッピーやフーテン族としばしば重なり合う存在でもありました。

特に有名なのは、劇作家の唐十郎率いる「状況劇場」が新宿の花園神社境内などで行った赤テント公演や、寺山修司主宰の「天井桟敷」による前衛演劇です。彼らの舞台は型破りで、観客参加型のハプニング的要素を取り入れたり、女性の裸体にボディペイントを施すようなショッキングな演出もありました。こうした奇抜なパフォーマンスは「アングラ芸術」と呼ばれ、既成の商業演劇や映画へのアンチテーゼ(対抗)と位置づけられました。

「アングラ」という言葉自体も1967年に流行語としてクローズアップされ​、以後「アングラ演劇」「アングラ音楽」のように定着していきます。例えば1967年にはフォークソンググループ「ザ・フォーク・クルセダーズ」の風刺曲『帰ってきたヨッパライ』が大ヒットしましたが、これなどはアングラ・フォークの代表例とも言われます​。以降1970年代までアングラ文化は細々と続きましたが、やがて商業主義やメジャー路線に吸収されていき、「アングラ」という言葉も次第に一般化していきました。

現代では「アングラ」は「アングラサイト(地下サイト)」のようにマイナーで怪しげなものを指すニュアンスもありますが、当時の「アングラ」はもっと積極的に体制に対する挑戦前衛芸術の精神を表した言葉でした。その熱量を知ると、「アングラ」という響きに込められた情熱的な時代の空気を感じることができます。

ハイミス(高年齢未婚女性)

「ハイミス」は、結婚適齢期を過ぎた未婚女性を指す和製英語です​。「ハイ(high)=高い」と「ミス(Miss)=未婚女性」を組み合わせた言葉で、戦前には「オールドミス(老ミス、お局様のような意味)」という表現が使われていましたが、それではあまりに直接的で失礼だということで、より婉曲な「ハイミス」が用いられるようになりました​。

この言葉が一般化したのは1960年代後半からです。戦後、日本でも女性の社会進出が徐々に進み、結婚だけが女性の幸せという価値観が揺らぎ始めます。高度成長で都市に職を得た女性の中には、20代後半〜30代になっても独身を貫く人も現れました。そうした女性たちを指して、周囲は当初「オールドミス」と呼んでいましたが、本人たちにすれば「老」呼ばわりは不本意です。そこで「ハイミス」という新語が生まれ広まったのです。

1967年当時は、まだアラサー・アラフォー(30歳前後・40歳前後)といった現在のような言い方はなく、「ハイミス」がそのポジションにありました。文学の世界でも、田辺聖子さんの小説にしばしばハイミスの女性が主人公として登場し、自らを「私はハイミスだから…」と卑下半分に語る場面があります。それだけ「ハイミス」という言葉が当時の独身女性のアイデンティティを表す言葉になっていたのでしょう。実際、辞書にも1970年代には載るようになり​、1970〜80年代頃まではごく普通に使われていました。

しかし時代が下るにつれ、「高年齢」を強調するこの言葉に抵抗を感じる人が増え、次第に廃れていきます​。平成に入る頃にはほとんど聞かれなくなり、代わって前述の「アラサー」「アラフォー」など年齢そのものをボカす言い方が主流となりました。現在、「ハイミス」という言葉はほぼ死語となっています。当時それだけ結婚適齢期の境界に社会の関心が集まっていた証でもあり、女性の生き方が変わってきた歴史を物語る言葉と言えるでしょう。

ハプニング(偶発的出来事、奇抜なイベント)

「ハプニング」は英語の happening から来た言葉で、本来は「出来事」「偶発事件」を意味します。日本語としては1960年代後半に定着し、この頃は思いがけないハプニング(珍事件)が起きた、という具合に使われ始めました。1967年には流行語の一つに数えられており、テレビや雑誌でも「ハプニング的な演出」などと用いられています。

この言葉が流行した背景には、先述したアングラ芸術における「ハプニング」の影響もあります。アメリカの芸術家アラン・カプローが提唱した前衛芸術の一形態で、即興的・偶発的パフォーマンスを重視したイベントを「ハプニング」と呼びました。日本でも寺山修司らアングラ系アーティストたちが奇抜なパフォーマンス(例えば突然街頭で奇妙な行動をする等)を「ハプニング」と称して行い、それがマスメディアで紹介されたことで一般にもこの言葉が広まったと考えられます。

さらに、1967年はテレビ番組でも生放送中の予期せぬ出来事などが「ハプニング」として面白おかしく語られました。当時はバラエティ番組や歌番組でハプニングが起きると視聴者が大いに盛り上がり、そのエピソードが井戸端会議のネタになることも珍しくありません。こうした要因が重なり、「ハプニング」は驚きの出来事全般を指す流行語となりました。

現代では「ハプニング」はすっかり日本語に溶け込み、「ちょっとしたハプニングがあってね」などと誰でも使う言葉です。特に若者言葉という感じもなくなりましたが、そのルーツを辿ると1960年代の前衛芸術やメディアイベントに行き着くのは興味深い点です。

おわりに:昭和42年の言葉から見えるもの

以上、1967年(昭和42年)に日本で流行した主な言葉を振り返りました。この年は高度成長のただ中で、人々の生活様式や価値観が大きく動いていたことが、流行語からもうかがえます。核家族やハイミスといった言葉からは社会構造や女性観の変化が読み取れ、「対話」や「戦無派」からは新しい政治風土や世代意識の芽生えが感じられます。また、ボインやサユリストのようなポップな言葉は当時の大衆娯楽の熱気を伝え、ヒッピー族・フーテン族・アングラといった言葉は若者文化の胎動を今に伝えています。

この中には現在でも日常語として残っているもの(例:「かっこいい」「核家族」)もあれば、時代を映す死語となったもの(例:「ハイミス」「フーテン族」)もあります。流行語は一過性のブームで終わることも多いですが、当時それが流行った背景を知ることで、社会の動きを立体的に理解する手がかりになります。当時を知る人にとっては懐かしく、若い世代にとっては新鮮な昭和42年の流行語たち。ぜひこれらの言葉から1967年という時代を感じ取り、昭和の歴史に思いを馳せてみてください。

参考資料

  • 米川明彦 編『明治・大正・昭和の新語・流行語辞典』(2002)など新語辞典類​
  • 昭和42年当時の新聞・雑誌記事、および1967年の世相解説
  • コトバンク他、各種言葉の意味・由来解説​
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