1968年(昭和43年)の流行語とその背景

1968年(昭和43年)は、日本にとって激動の一年でした。学生運動の過熱や高度経済成長の絶頂期、「昭和元禄」とも称される豊かさと文化の高まりが同居し、社会のあちこちで新しいムーブメントが起こりました。

そんな時代の空気を映すように、多くの流行語が誕生しています。

この記事では、1968年当時に流行した言葉やフレーズを、誕生の背景や由来、当時の出来事との関係も含めて解説します。当時を知らない方も、懐かしく感じる方も、ぜひ昭和43年の熱気を言葉から感じてみてください。

学生運動・社会の変革から生まれた流行語

1968年といえば、日本各地の大学で学生紛争が激化し、安保反対や大学改革を掲げた学生運動が頂点に達した年です。東大安田講堂や日大闘争などがニュースを賑わせ、若者が政治に熱狂した一方で、それを傍観する人々との温度差も生まれました。こうした社会の変革期から、多くのスラングや新語が生まれています。

「ゲバ」「ゲバ棒」 – 過激な闘争の象徴

1968年の学生運動のニュース映像には、ヘルメットにタオルで顔を覆った学生たちが棍棒を手に機動隊と衝突するシーンがしばしば映し出されました。このとき学生たちが振るっていた角材は「ゲバ棒」と呼ばれます。「ゲバ棒」の「ゲバ」とはドイツ語の“Gewalt(ゲバルト)”に由来し、「暴力」や「実力闘争」を意味する言葉です​。もともと1967年頃から使われ始め、デモや大学構内の激しい実力闘争で用いられた棒状の武器を指しました​。学生たちはこれを手に「権力と戦う象徴」としていたのです。

“ゲバ棒”という語はニュースや新聞で繰り返し使われ、「ゲバ」自体も暴力的な闘争そのものを指す略語として定着しました。「ゲバ」が付く言葉として内ゲバ(内部抗争)なども生まれ、この年の世相を象徴する言葉となりました。もちろんこれらの言葉は当時特有のもので、現在では学生運動の歴史を語る文脈以外で耳にすることはほぼありません。今の若者には通じない昭和の遺産語と言えるでしょう。

「ノンポリ」「ノンセクト」 – 政治離れと派閥離れ

一方、すべての学生が過激な運動に身を投じていたわけではありません。大学には政治運動に関わらない学生たちも多く、彼らは「ノンポリ」と呼ばれました。「ノンポリ」は英語のnonpoliticalの略で、政治的でない人、すなわち学生運動に無関心な学生層を指す言葉です​。1968年の東大・日大紛争が始まった頃には、既に流行語として扱われるほど一般化していました。政治に全く興味がない若者だけでなく、内心では社会問題に関心があっても「党派だらけの過激化した運動には嫌気がさして参加しなかった」層も含まれたようです。

また、当時の学生運動は各セクト(党派)による主導争いも激しく、党派に属さず独自に行動する急進的な学生は「ノンセクト・ラジカル」と呼ばれました。こちらも略して「ノンセクト」と称され、ノンポリとは区別されますが、一般にはまとめて語られることもあります。

ノンポリ・ノンセクトという言葉は1960〜70年代特有の学生用語であり、現代では若い世代には通じにくいでしょう。ただし「政治に関心がない若者」という意味でノンポリという表現が使われることは、現在でも皆無ではありません。

「日和る」 – 革命児たちの挫折を表す言葉

学生運動最中の若者言葉としてもう一つ注目すべきが「日和る(ひよる)」です。これは「日和見主義」(形勢をうかがって有利なほうにつくこと)から派生した俗語で、途中で怖じ気づいたり投げ出したりする意味で使われました​。革命に燃えていた学生たちは、運動から離脱した者や腰が引けた仲間に対し「あいつ、日和ったな」と批判的に用いたのです。「信念を曲げて強い側になびく卑怯者」「意気地のない脱落者」といったニュアンスが込められ、当時の過激派学生の間で定着しました。

この「日和る」、実は近年になって若者言葉として復活している点も興味深いです。ある人気漫画のセリフ「日和ってる奴いる?」がきっかけで、「ビビる・尻込みする」という意味合いで若い世代が使うようになりました​。

もっとも現代の若者はその語源が60年代学生運動にあるとは知らないかもしれません。当時は命がけだった言葉が、形を変えて令和の高校生の間で飛び交っているのは歴史の巡り合わせを感じます。

高度経済成長と世相を映す流行語

1968年は経済的にも日本が世界に躍進した年でした。この年、日本のGNP(国民総生産)は当時西ドイツを抜いて世界第2位となり、大きな話題となりました。いざなぎ景気と呼ばれる空前の好景気は人々の消費意欲をかき立て、街には活気が溢れています。豊かさと文化の花開く様を江戸時代の元禄期になぞらえて「昭和元禄」と称する向きもありました​。この高度成長と世相から生まれた流行語を見てみましょう。

「昭和元禄」 – 豊かさと文化の爛熟期

「昭和元禄」とは、まさに1968年前後の時代を象徴するフレーズです。江戸時代の元禄といえば経済が発展し町人文化が爛熟した華やかな時代ですが、戦後日本の高度成長による繁栄と文化的高揚を重ね合わせてこう呼びました​。

実際、この年には川端康成が日本人初のノーベル文学賞を受賞し、日本文化が世界に認められた年でもあります。経済面では後述の「いざなぎ景気」の真っ只中で、人々の暮らし向きも大きく向上しました。消費ブームに湧き、ファッションや音楽など若者文化も活発化したこの時期を表現するのに「昭和元禄」という言葉はぴったりだったのでしょう。

ただし「昭和元禄」という言い回し自体は、あくまで当時のメディアや評論家が好んだ表現で、一般の人々が日常会話で使うような流行語だったかというと微妙かもしれません。とはいえ1968年前後の空気感を一言で示す言葉として、今でも昭和を振り返る際によく用いられています。当時を知らない世代でも、「昭和元禄」と聞けばなんとなく高度成長期の活気ある雰囲気を思い浮かべるのではないでしょうか。

「いざなぎ景気」 – 神話になぞらえた空前の好景気

1965年末から1970年にかけて続いた戦後最長の好景気は、後に「いざなぎ景気」と名付けられました​。日本神話のイザナギ(伊邪那岐命)にちなみ、「神代以来の」(つまりそれまでに例のない)好景気という意味合いを込めた名称です。1968年時点ではまさにその絶頂期で、年平均10%を超える経済成長が続き、人々は豊かさを実感し始めていました。

「いざなぎ景気」という言葉自体は政府や報道が用いた経済用語ですが、当時の世相を映すキーワードでもあります。サラリーマンの給与は上がり、街にはカラーテレビやマイカーといった新三種の神器が普及し始め、人々は未来に希望を持っていました。経済用語であるため一般の流行語というより新聞の見出し的な言葉ですが、経済ニュースを通じて多くの人が耳にしたことでしょう。

結局この好景気は1970年まで続き、「いざなぎ越え」と言われるほどの記録的な繁栄となります。今では歴史の教科書にも載る言葉ですが、当時を知る人々にとっては「豊かさ」の追憶と結び付いた懐かしいフレーズかもしれません。

「大きいことはいいことだ」 – 時代を映したテレビCMの名文句

高度成長期ならではの価値観を端的に表した流行フレーズとして、森永製菓のチョコレートのテレビCMから生まれた「大きいことはいいことだ」があります。このCMには当時人気だった指揮者の山本直純氏が出演し、大きなチョコを手に「大きいことはいいことだ!!」と叫ぶ内容でした​。1968年頃から放送され、その強烈でユーモラスなメッセージは視聴者の記憶に焼き付きました。

このコピーが流行語化した背景には、まさに経済成長への肯定感があります。何でもスケールが大きいことは素晴らしい、豊富であることは善いことだ、といった価値観が人々に共有されていたのでしょう​。当時はビルも製品も次々と大型化し、「ビッグ」が正義のような風潮すらありました。それを端的に表現したこのフレーズは、子どもから大人まで口真似されるヒットとなったのです。

現代から見ると単純でほほ笑ましいこの言葉ですが、当時を振り返るキーワードとして今なお知る人も多いでしょう。経済が右肩上がりだった時代の楽天的な空気を伝える象徴的な流行語です。もっとも令和の今、「大きければ良い」という価値観は見直され、小さな良さや効率が尊ばれる傾向にあります。当時とのギャップも感じられるところですね。

「わんぱくでもいい、たくましく育ってほしい」 – 子どもの成長を願う親心のCM

もう一つ、昭和43年の流行フレーズとして忘れてはならないのが、丸大食品のハム・ソーセージのテレビCMで使われた「わんぱくでもいい・たくましく育ってほしい」です​。CMでは、やんちゃな少年を見守る母親がこのセリフを語り、当時の視聴者の心に強く響きました。多少いたずらっ子でも構わない、たくましく成長してくれればそれで良い——そんな親の深い愛情と願いが込められたフレーズです。

高度成長を経て生活に余裕が出てきたことで、家庭では子どもの個性を伸ばそうという教育観の変化も生まれていました。それまでのように厳しくしつけるより、多少わんぱくでも健康で力強く育つことが大事、という考え方が広まっていたのです。このCMの言葉はまさにそうした時代の子育て観を代弁し、多くの親たちの共感を呼びました。

以来、「わんぱくでもいい…」は子育ての金言のように語り継がれ、現在でも昭和を代表するCM名言として度々取り上げられます。子を思う普遍的な親心がある限り、この言葉は色褪せない名フレーズと言えるでしょう。

若者文化・娯楽から生まれた流行語

1968年は、若者文化が一気に花開いた年でもあります。音楽ではエレキサウンドに乗せたグループ・サウンズ(GS)ブームがピークを迎え、ファッションではヒッピー由来の派手なサイケデリックが流行し、漫画やテレビも新時代の空気を反映した作品が登場しました。

若者を中心に生まれた流行語には、楽しげなものから大人を驚かせたものまで様々あります。

「五月病」 – 新生活に燃え尽きた大学新入生たち

まず取り上げるのは、現代でもよく知られる「五月病」です。これは正式な医学用語ではなく、1960年代後半に東京大学で使われ始めた俗称だと言われています。受験戦争を勝ち抜いて念願の大学に入学した新入生が、4月の慌ただしい新生活とゴールデンウィークを経て5月頃に燃え尽きたように無気力・無関心になる――そんな心理状態を指す言葉です。

高度経済成長期、大学進学率が上がり競争は激化。入学直後の期待と緊張が一段落すると、今度は理想と現実のギャップや新環境への適応ストレスで虚脱感に襲われる学生が目立ったのです。1968年ごろに東大の学生相談室あたりでこの状態を「五月病」と呼んだのが広まり、メディアにも登場しました。

「五月病」という言葉はその後一般にも定着し、新入社員や中高生についても使われるようになりました​。現在でも毎年5月になるとニュースや記事で「五月病にご注意」などと登場するほど、生き残った昭和生まれの現役用語です。ただし使われ方は当時とやや変わり、今では5月以外にも長期休暇後の倦怠を含めて広く「燃え尽き症候群」的な意味で使われることもあります。

「サイケ」 – ヒッピー文化がもたらしたサイケデリックブーム

「サイケ」とはサイケデリック (psychedelic) の略で、1968年当時のカラフルで幻想的なファッションや音楽の潮流を指す言葉です。アメリカや欧州で起きたヒッピー・ムーブメントやサイケデリック・ロックの影響が日本の若者にも波及し、極彩色の模様や奇抜なスタイルが「サイケ調」としてもてはやされました。

東京・新宿には1968年、サイケファッション専門店「ジ・アプル」がオープンし、赤坂にはサイケ風のディスコクラブ「ムゲン」が開店しています。これらは“サイケの仕掛人”と呼ばれた浜野安宏氏のプロデュースによるもので、日本でも本格的にサイケ文化が商業展開されたことを示します​。また音楽シーンではザ・ビートルズの後期作品やアメリカ西海岸の影響で、国内GSバンドもサイケ調の曲や演出を取り入れました。

「サイケ」という言葉自体が当時の流行語トップテンに入ったかは定かではありませんが、少なくとも若者の間では通じるカッコいい俗語でした。実際、朝日新聞の記事でも「ハレンチ」「ハプニング」などと並び1968年の流行語の一つとして「サイケ」が挙げられています。現在ではファッション史や音楽史の用語として残っていますが、日常会話で使う人は少ないでしょう。ただ当時を知る人には「サイケな○○」と言えば今でも派手なものを形容できるかもしれませんね。

「失神」 – 熱狂的アイドル人気が生んだ現象

1968年、日本の若い女性たちを熱狂させたのがグループ・サウンズ(GS)と呼ばれるバンドブームです。ザ・タイガースやテンプターズ、オックスといった人気グループのコンサートでは、あまりの興奮に観客の少女たちが次々と失神するという騒ぎが各地で起こりました。特にオックスはステージ上でメンバー自らが倒れる“失神パフォーマンス”を演出し、それに呼応してファンが本当に気絶して担架で運ばれるという伝説的なシーンを生みました。

こうした現象から「失神」という言葉が流行語として独り歩きします。単に気絶する意味の医学用語ですが、この年は若い女性の熱狂ぶりを象徴する言葉としてメディアでも盛んに使われました​。「○○で失神」といえば「○○に熱狂して我を忘れる」くらいのニュアンスで報じられたのです。実際、1968年の流行語のひとつに「失神」が数えられており、同年の流行を代表する「サイケ」「ハレンチ」「ハプニング」などとともに挙げられています。

現在でもコンサートでファンが気絶することは稀にありますが、「失神」を流行語として捉える感覚は当時特有でしょう。今で言うところの「◯◯沼にハマる」「尊すぎて昇天」といったオタク用語に通じるものがあるかもしれません。当時の若い女性にとって、憧れのグループ・サウンズはそれほどまでに夢中にさせる存在だったのです。

「ハレンチ」 – 漫画『ハレンチ学園』に端を発した禁断ワード

1968年、週刊少年ジャンプの創刊とともに連載開始された永井豪の漫画『ハレンチ学園』は、日本中に衝撃を与えました。お色気とギャグ満載のこの作品に対し、PTAや教育界から「けしからん!ハレンチだ!」との猛抗議が起こったのです。「ハレンチ」とは本来「恥知らず」「不道徳」という意味ですが、この騒動をきっかけに子どもから大人まで知るところとなり、逆に若者たちは面白がって日常会話に取り入れました。

当時、学校でエッチなことをすると教師から「ハレンチ!」と叱られ、子どもたちはドキリとしながらもその言葉の響きを面白がったものです。さらには漫画に影響されて全国で“スカートめくり”ブームが起こり、大人たちを慌てさせました。そうした中で「ハレンチ」は一種の流行語として独り歩きし、「もう~、ハレンチね!」などと冗談めかして使うケースもあったようです。当時の若者言葉として「ハレンチ」は「いかす」「かっこいい」に近いニュアンスで使われたとも言われています。

もっとも、基本的には否定的な意味の強い言葉ですので、流行語といえども使い方は難しかったでしょう。それでも朝日新聞の記事にあるように、この年の流行語の代表格として「ハレンチ」は確実にその名を残しました。現代ではあまり聞かれなくなりましたが、「ハレンチ学園」は伝説の漫画として語り継がれ、「ハレンチ」という単語も昭和を回顧するキーワードとして時折用いられます。

「ズッコケる」 – お笑いブームとともに広がったコミカルな表現

「ズッコケる」は、元々関西の喜劇で使われていた擬音語で、ズッコケて転ぶ(ひっくり返る)ような拍子抜けする様子を表現する言葉です。1968年、この「ズッコケる」が流行語になったのは、コントグループ「ザ・ドリフターズ」の功績によるところが大きいです。ドリフターズはコミカルな音楽とコントで人気を博し、1968年に「ズッコケちゃん」というコミックソングをヒットさせました。曲中で連呼される「ズイズイズッコケ…」というフレーズが印象的で、これが若者を中心に受け入れられて広まったのです。

当時のバラエティ番組や喜劇映画でも、ボケに対するリアクションとして集団でズッコケるお約束が定着していきました。誰かが冗談を言ったり失敗したりすると「おっと、ズッコケた!」という感じでみんなが体を張ってひっくり返る——昭和のお笑い定番シーンです。こうしたギャグが一般にも浸透し、「おまえにはズッコケたよ(=あきれたよ)」のように軽い失望や驚きを表す俗語としても使われました。

「ズッコケる」はその後も日本のお笑い文化に根付いて、昭和の終わりから平成にかけても使われ続けます。現在では若干古風な表現になりましたが、「ずっこけ三人組」という児童文学シリーズのタイトルになるなど、一種愛嬌のある日本語として残っています。1968年当時のドリフ人気とコメディブームを物語る言葉と言えるでしょう。

その他1968年の主な流行語

上述のほかにも、1968年には様々な言葉が人々の話題に上りました。たとえば、既に触れたグループ・サウンズ(GS)という音楽ジャンル名自体も若者の間で頻繁に語られています。また、「ハプニング」という言葉もこの頃流行しました。もともとは前衛芸術の即興イベントを指す言葉ですが、突発的な出来事全般を「ハプニング」と称して面白がる風潮が生まれています。

さらに、当時の流行俗語としては「いい線いってる」(何かがうまくいきそう、見込みがある様子)や、可愛らしい女の子を指す「カワイコちゃん」、怒り狂う様子を表す「トサカにくる」(ニワトリのトサカが逆立つほど怒る、の意)、おどけて謝るフレーズ「どーもすいません」などもあったとされます。これらは主に当時の若者言葉やテレビのギャグから派生したもので、一時的に流行したものの、現代では死語化したものがほとんどです。

言葉は時代を映す鏡とはよく言ったもので、1968年の流行語を眺めると、社会の激動、経済の昂揚、文化の爛熟、そして若者エネルギーの爆発が如実に浮かび上がります。昭和43年という一年間にこれほど多彩な言葉が生まれ、人々がそれを面白がり、時には揶揄し、時には希望を託して使っていた——まさに言葉から昭和の息吹が感じられるのではないでしょうか。

昭和40年代の流行語は、現代の私たちにも学びと楽しさを与えてくれます。ぜひ当時の背景に思いを馳せながら、これらの言葉を味わってみてください。昭和43年の日本が少し身近に感じられるかもしれません。

参考文献・情報源

昭和43年当時の新聞・雑誌記事、現代の回顧記事、流行語年表​などを参照して執筆しました。

各流行語の解説には信頼できる辞典や当時の資料をもとにしています。

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