1970年(昭和45年)の流行語とその背景

1970年(昭和45年)は、日本社会が大きな転換期を迎えた年でした。高度経済成長を象徴するような明るい出来事として、3月には大阪で日本万国博覧会(大阪万博)が開幕し、約6,400万人という驚異的な入場者数を記録しました。

この年は日本初の航空機ハイジャック事件(よど号事件)や三島由紀夫の割腹自殺事件など衝撃的な事件も相次ぎ、社会に大きな影響を与えています​。学園紛争が沈静化した直後で、若者の間にはどこか冷めたムードが漂いはじめ、同時に新しい社会運動も生まれました。

こうした激動の世相を反映し、1970年には数多くの流行語が生まれています。本記事では、当時流行した言葉やフレーズについて、その背景や由来、関連する出来事を深掘りし、現代でも使われているかどうかも含めて解説します。

社会と世相を映す流行語

1970年は経済成長の光と影、そして社会意識の変化が顕著になった年です。

まずは、当時の社会問題や世相の変化に関連した流行語を見てみましょう。女性解放運動から若者の価値観、公害まで、様々な分野の言葉がこの年に話題になりました。

ウーマン・リブ(Women’s Lib) – 女性解放運動の旗揚げ

ウーマン・リブ」とは、1960年代にアメリカで始まった女性解放運動(ウィメンズ・リベレーション)を指す和製英語です。日本では1970年がこの運動の幕開けの年となりました。国際反戦デーであった1970年10月21日、東京・銀座で日本初のウーマン・リブ集会とデモが開催され、女性たちだけでシュプレヒコールを行ったのです。このデモを主導したのは「ぐるーぷ・闘う女」の代表である田中美津氏で、当日には「便所からの解放」と題したビラが配られ、女性が男性社会において置かれた立場への怒りと解放要求が訴えられました。

このようにウーマン・リブ運動は女性自身の手による女性差別からの解放を目指すラディカルな社会運動であり、当時の日本社会にも強い衝撃を与えました。具体的には、中絶の権利や性暴力の撤廃、男女平等な労働環境の実現など、女性が声を上げて権利向上を求めたのです​。男性中心だった社会の価値観に疑問を投げかける過激さから、当時はしばしば物議を醸しましたが、この運動によって女性の社会進出や意識変革が進むきっかけが生まれました。

流行語「ウーマン・リブ」は新聞やテレビでも取り上げられ、1970年を象徴する言葉の一つとなりました。現在では「ウーマン・リブ」という言葉自体はあまり日常で使われませんが、フェミニズムやジェンダー平等運動の先駆けとして歴史的に語られる用語です。当時の熱気を示すこの言葉は、現代にも続く女性の権利向上の流れの原点として記憶されています。

三無主義(さんむしゅぎ)としらけ世代 – 若者の無関心を表す言葉

高度成長期の後半、生き生きと社会運動に取り組んだ団塊の世代(1947~49年生まれ)が大学生だった1960年代末と比べ、その少し下の世代の若者たちは「何事にも無気力で無関心」と揶揄されました。この風潮を端的に表したのが「三無主義」という言葉です。三無主義とは、若者の「無気力・無関心・無責任」という3つの「無」を指し、昭和45年(1970年)頃から使われ始めた言葉です。学園紛争がピークを過ぎて沈静化すると、若者たちの間には何に対しても熱中できない「しらけムード」が広がっていきました​。

この時期の若者は、大きな理想を掲げて闘争に明け暮れた先輩世代とは対照的に、政治や社会運動に冷めており、「しらけている」と言われました。そうした態度から「しらけ世代」とも呼ばれ、彼らの特徴を表す三無主義という言葉が流行したのです。さらに当時は、無関心・無気力・無責任に「無感動」まで加えた「四無主義」や、加えて「無作法」まで含めた「五無主義」などという派生語も生まれました(揶揄がエスカレートした表現ですが)​。

「三無主義」という言葉自体は、現在では当時の世代を語る歴史的な用語として使われる程度で、現代の若者に対しては使われません。しかし「しらける」「しらけ世代」という表現は、その後も一般用語として残り、何かに興ざめして白けた様子を指す言い回しとして定着しました。例えば場の空気が盛り下がることを「場がしらける」と言うように、「しらける」自体は今でも日常的に使われています。ただし、「しらけ世代」という呼称は特定の年代(1950年代生まれ前後)を指す言葉であり、現代では歴史的な世代区分の一つとして語られるのみです。

公害・ヘドロ – 環境汚染への怒りと悲しみ

1960年代後半から日本各地で深刻化していた公害問題は、1970年に国民的な関心事となりました。この年の国会は「公害国会」と呼ばれ、大気汚染防止法や水質汚濁防止法など環境関連の法整備が一気に進められたほどです。なかでも、人々に強烈な印象を与えたのが「ヘドロ」という言葉でした。

「ヘドロ」は本来、工場排水や下水などによって河川や海に沈殿した汚泥(どろ)を指します。1970年当時、各地の水質汚染が深刻で、川や海には黒く悪臭を放つヘドロが堆積していました。たとえば静岡県の田子の浦港では、有害なヘドロによる漁業被害に対して住民たちが立ち上がり、「ヘドロ追放」を掲げる住民大会まで開かれています​。また首都圏でも多摩川や東京湾のヘドロ汚染がニュースとなり、人々の間に環境への危機感が広まりました。

当時「ヘドロ」は、公害の象徴的な存在としてワイドショーや新聞で連日取り上げられ、「ヘドロとの闘い」は社会正義のテーマとなりました。東京の空を覆ったスモッグ(光化学スモッグ)や悪臭公害と並んで、ヘドロ除去は急務の課題だったのです​。こうした背景から「ヘドロ」は1970年の流行語の一つになり、人々が環境問題に目覚め始めた象徴的なキーワードとなりました。

その後、日本は公害対策基本法の施行や環境庁(現・環境省)の設置などを経て、水質汚濁は徐々に改善されていきます。現在、「ヘドロ」という言葉自体は単なる泥汚れや沈殿物を指す技術用語として使われることが多く、流行語としての勢いはありません。しかし1970年当時を知る人々にとって、「ヘドロ」という言葉には高度成長のひずみと環境破壊への怒り・悲しみが刻まれており、公害問題を語る際に今なお思い出されるキーワードです。

スキンシップ – 家庭で生まれた和製英語

1970年前後の日本では、核家族化や共働き世帯の増加が進む中で、親子の触れ合いに注目が集まりました。そんな中登場したのが「スキンシップ」という言葉です。スキンシップとは、英語の「skin(肌)」と「-ship(状態や関係を表す接尾語)」を組み合わせた和製英語で、肌と肌を触れ合わせることで情緒的な一体感や親密さを高める行為を指します。

この言葉が一般に広まった背景には、当時の育児や教育の課題がありました。1960年代末から70年代初頭にかけて、ベビーブーム世代の子育て期に入り、母子のスキンシップ不足による情緒面への悪影響が指摘され始めました。また、公立保育所の拡充を求める声が上がる一方で、「子育ては母親がすべきだ」という考えから家庭での触れ合いの大切さを説く論調もあったのです。そうした中で「スキンシップ」という言葉が登場し、親が子供を抱きしめたり一緒に遊んだりすることの重要性が強調されるようになりました。

「スキンシップ」は家庭や学校で推奨される前向きなキーワードとして1970年頃から急速に定着しました​。育児書や教育雑誌でも使われ、当時の流行語となったのです。やがてこの言葉は親子関係に限らず、人と人との触れ合い全般を指す意味でも用いられるようになりました。現代でも「スキンシップを図る」などと言えば、恋人同士や友人同士でボディタッチを通じて親密になることを意味し、日常語として定着しています。和製英語ではありますが、日本人にとってはポジティブな触れ合いを示す便利な言葉として生き続けているのです。

「モーレツからビューティフルへ」 – 時代の価値観の転換を示すキャッチコピー

1960年代の日本は「モーレツ社員」に代表されるような働き盛りの情熱と根性の時代でした。「モーレツ」とは猛烈、つまり猛烈に働く・猛烈に突き進む様子を意味し、高度成長期の企業戦士を象徴する言葉でした。しかし、1970年を迎える頃になると、人々の心には物質的豊かさだけでなく人間らしさや美的な生活への憧れが芽生えてきます。そんな時代の空気を見事にすくい取ったのが、「モーレツからビューティフルへ」というフレーズでした。

この言葉は、1970年に富士ゼロックス社が企業広告のキャッチコピーとして発表したものです。コピーライターの藤岡和賀夫氏が手がけた広告で、銀座の街頭に「モーレツからビューティフルへ。」と大書されたポスターが掲出され、当時大きな話題を呼びました。メッセージは「経済成長で突っ走るモーレツの時代から、美しさやゆとりを求める時代へ移行しよう」というもので、これは日本の広告史上初の本格的なメッセージ広告とも言われます​。

このフレーズが流行語になった背景には、ちょうど1970年開催の大阪万博のテーマ「人類の進歩と調和」にも通じるムードがあったことが挙げられます。万博では科学技術の進歩だけでなく、人類愛や芸術性との調和が掲げられ​、人々は豊かさの中での心の充実を考え始めていました。そんな中で「モーレツからビューティフルへ」というコピーは多くの日本人の心に刺さり、時代のキーワードとして流布しました。

現在でもこのフレーズは、昭和から平成への価値観の転換を象徴する名コピーとして語り継がれています。実際、2015年に藤岡氏が亡くなった際も新聞でこの業績が紹介され、SNS上で「今こそモーレツではなくビューティフルな社会を」というように引用される場面も見られました。「モーレツからビューティフルへ」は単なる流行語に留まらず、日本人の意識変革を促した歴史的キャッチコピーとして今なお輝きを放っています。

1970年の事件・ブームに由来する言葉

続いて、1970年に実際に起こった事件やブームから生まれた流行語を振り返ります。

大阪万博の熱狂や世間を震撼させた事件、そして人々が熱中した新しい風俗まで、この年ならではの出来事に関連した言葉が数多く誕生しました。

大阪万博と「人類の進歩と調和」

1970年最大のイベントと言えば、何と言っても3月から9月にかけて開催された日本万国博覧会(大阪万博)でしょう。日本で初めて開かれた世界規模の万博であり、「進歩と調和」というテーマのもと、世界各国のパビリオンが集結しました。岡本太郎作の太陽の塔がシンボルとして会場にそびえ立ち、日本中が未来への夢と活気にあふれた半年間でした。

万博のテーマ「人類の進歩と調和」という言葉自体も、この年の流行語の一つとなりました。高度成長で手にした「進歩(Progress)」と、人間性や環境との「調和(Harmony)」を両立させようという理念は、当時の日本人にとって新鮮で希望に満ちたメッセージでした。万博会場では最先端の科学技術や未来都市の模型が展示される一方で、「調和」を象徴するような自然や芸術にもスポットが当てられ、訪れた人々はそのスローガンを肌で感じ取ったのです。

大阪万博」自体ももちろん流行語的に語られ、各種メディアで万博特集が組まれました。例えば「○○万博」(後の沖縄海洋博など)という言葉が定着したのも、この大阪万博の影響です。「万博」はそれまで一般には馴染みが薄かった言葉ですが、この年を境に「国際博覧会」を指す日本語として定着し、人々の記憶に強く残るようになりました。

万博関連では、テーマ以外にも「月の石」(アポロ計画で持ち帰った月の石を展示)、「動く歩道」(会場の移動設備)、「タイムカプセル」(松下館の企画)など、当時流行したキーワードが数多くあります。しかし中でも「人類の進歩と調和」は、その後の日本社会のキーワードにも通じる深い言葉として評価されます。2025年に大阪・関西万博が予定開催されるなど、「万博」という言葉自体は色あせることなく使われ続けています。そして1970年の大阪万博は、日本の発展と文化的成熟を示す歴史的出来事として、流行語とともに語り継がれているのです。

ハイジャック – よど号事件で知られた新語

1970年は日本で初めてハイジャックという言葉が現実の事件として認識された年でした。ハイジャック(Hijack)は本来「強奪する」という意味の英語ですが、特に航空機の乗っ取りを指す言葉として定着しています。この年の3月31日、東京発福岡行きの日航機「よど号」が過激派グループにより乗っ取られるという衝撃的な事件が発生しました​。犯行グループは共産主義者同盟赤軍派のメンバー9人で、飛行機を北朝鮮に向かわせ、結果的に乗客乗員を人質にとって北朝鮮へ亡命するという結末を迎えました​。これが日本で最初の航空機ハイジャック事件(よど号ハイジャック事件)です。

事件当時、「ハイジャック」という言葉自体がまだ日本では耳慣れない新語でしたが、連日の報道によって一気に全国に知れ渡りました。「よど号事件」は非常に大胆かつ劇的な展開だったため、人々の関心は高く、犯人たちの動向や人質の無事が固唾を飲んで見守られました。この事件をきっかけに、政府は同年5月に「ハイジャック防止法」を制定し、航空機の不法奪取に厳しい罰則を科すことになりました​。以後、「ハイジャック」は法律用語としても定着し、飛行機以外にもバスジャック(バス乗っ取り)やシージャック(船舶乗っ取り)という派生語も生まれています​。

1970年にはよど号以外にも、8月に全日空機のハイジャック未遂事件(通称「アカシア便事件」)が起きており​、「ハイジャック」という言葉は頻繁にニュースに登場しました。まさにこの年の時事用語として流行したと言えます。現在でも「ハイジャック」という言葉は使われていますが、航空保安の強化により実際の事件は減少傾向です(近年ではテロリズムとして語られることが多い)。それでも、1970年前後に相次いだ事件の記憶から、日本人にとって「ハイジャック」は特別な響きを持つ言葉として残っています。

歩行者天国 – 銀座から始まったホコ天ブーム

今でこそ週末の銀座通りと言えば歩行者天国(ホコ天)はおなじみですが、その始まりも1970年でした。歩行者天国とは、自動車を締め出して歩行者だけが通行できるようにした道路のことで、欧米では「歩行者専用ゾーン」が以前からありましたが、日本では発想自体が新しかったのです。

1970年8月、警視庁は都心部の道路混雑緩和策と街の賑わい創出を兼ねて、日本初の歩行者天国を試験的に実施しました。場所は銀座、新宿、池袋、浅草など東京の主要繁華街で、日曜・祝日の一定時間だけ車を通行止めにして道いっぱいに人々が自由に歩けるようにしたのです​。車社会が進む一方で歩行者の安全や楽しみも考慮したこの試みは大成功をおさめ、買い物客や家族連れで道路が埋め尽くされる光景が各地で見られました。

「歩行者天国」という名称のインパクトも手伝い、この新しい交通規制は瞬く間に全国に広がります。1971年には名古屋や大阪など他都市でもホコ天が導入され、歩行者に開放された道路は街の新名所となりました。当初はイベント性も高く、ストリートミュージシャンが演奏したり、パフォーマーが芸を披露したりする場にもなっていたため、週末の繁華街はお祭りのような雰囲気でした。

こうして「歩行者天国」は1970年代を通じて定着し、「ホコ天」という略称でも呼ばれるようになります。言葉自体も、車が来なくて安心できる空間の代名詞として広辞苑にも載るほど一般化しました。現在でも銀座の歩行者天国は続いており、人々に愛されています。昨今は新型コロナの影響などで一時中止されたりもしましたが、また再開されるなど、「歩行者天国」の文化は根強く残っています。まさに1970年発の流行が半世紀にわたり根付いた良い例と言えるでしょう。

不幸の手紙 – 子どもたちを震え上がらせたチェーンレター

今で言う「チェーンメール」の走りとなったのが、1970年前後に大流行した「不幸の手紙」です。不幸の手紙とは、受け取った人に不気味な予言めいた内容を突きつけ、「決められた人数に同じ手紙を送らないと不幸になる」といった脅し文句で他人に手紙を出させるよう仕向けるチェーンレター(連鎖手紙)の一種です。

この不気味な遊びが日本で爆発的に広がったのは1970年の秋頃とされています。実際、1970年11月26日付の読売新聞には「不幸の手紙問題」が取り上げられており、その時点で既に「50時間以内に29人にこの手紙を出せ。さもないと必ず不幸が訪れる」といった内容の手紙が出回っていたと報じられています​。読売新聞には「こんな手紙をもらったがどうすれば?」という読者からの相談が殺到し、1970年10月からの1か月で百通以上も寄せられたそうです。

主に小中学生の間で流行した不幸の手紙ごっこは、子ども心にスリルと恐怖をもたらしました。手紙には「この内容を一字一句変えずに書き写して他の○人に出せ」とあり、さらに「誰かに話したら死ぬ」などと書かれていることもあって​、子どもたちは大人に相談できずに悩みながら手紙を書き写したといいます。その様子はホラー映画さながらで、実際この文化は後年の映画『リング』で描かれる「呪いのビデオ」に通じるものがあります。

「不幸の手紙」という言葉は、このチェーンレター現象がピークだった1970年代初頭の流行語でした。やがて警察や学校が注意喚起を行い、「出してはいけない」「無視しなさい」と指導されたことで沈静化していきます。そして時代は流れ、手紙からメール・LINEへと媒体を変え、デマや不幸のチェーンメッセージが飛び交う時代になりました。現代では紙の「不幸の手紙」はほとんど見かけませんが、インターネット上のチェーンメッセージに対する警鐘として、「昔、不幸の手紙ってあったよね」と語られることがあります。1970年発のこの言葉は、形を変えて受け継がれる人間の心理現象を示す教訓として残っていると言えるでしょう。

SLブーム – 蒸気機関車に熱狂した人々

鉄道ファンの世界で語り草になっている「SLブーム」も、ちょうど1970年前後にピークを迎えました。SLとはSteam Locomotive(蒸気機関車)の略称で、明治以来日本の鉄道を牽引してきた存在です。しかし国鉄では蒸気機関車は時代遅れとなり、ディーゼル機関車や電気機関車への置き換えが進んでいました。1965年(昭和40年)から1975年(昭和50年)までの約10年間は、全国で蒸気機関車が次々と引退していった時期であり、その最後の雄姿を見ようと人々が殺到したのです。

特に1970年前後になると、蒸気機関車が見られる路線が限られてきたため、鉄道ファンのみならず多くの人々が「今のうちにSLを見ておこう」と各地に出向きました。迫力ある黒い機関車が白い蒸気を噴き上げて走る姿はノスタルジーと郷愁を誘い、沿線にはカメラを構えた「撮り鉄」(鉄道写真愛好家)がずらりと並ぶ光景が日常化しました。こうした社会現象的な盛り上がりが「SLブーム」と呼ばれたのです。

当時の新聞や雑誌もこのブームを取り上げ、「○○線SL定期運行終了、惜別の人波」といった記事がたびたび載りました。子ども向けテレビ番組でもSLが題材になるなど、蒸気機関車は一種の郷愁ブームとして流行語的な存在となりました​。1970年はまだ北海道の幹線や九州・山口など各地にSLが残っていたため、夏休みに家族でSL旅行に行くというのも流行したパターンです。

1975年に国鉄最後の蒸気機関車が現役引退して以降、SLブームはいったん沈静化します。しかしその後も各地で保存運転や復活運転が行われるたびにミニブームが起き、「SL○○号」などの名前で観光資源として人気が再燃しています。「SLブーム」という言葉自体は1970年前後の特定の現象を指しますが、蒸気機関車に魅せられる人々の心は今も続いており、鉄道ファンの間では伝説的な時代として語られています。

大衆文化・若者文化から生まれた流行語

最後に、1970年当時の大衆文化や若者文化から誕生した流行語を見ていきましょう。

テレビ・漫画・音楽などの娯楽や、若者のノリやギャグから生まれた言葉も、この年ならではのものがあります。スポ根ブームに象徴される熱血ものから、お茶の間を沸かせたギャグまで、多彩な言葉が流行しました。

スポ根(スポーツ根性もの)ブーム

1960年代末から70年代にかけて、日本の漫画・アニメ・ドラマ界では「スポ根もの」と呼ばれるジャンルが隆盛を極めました​。スポ根とは「スポーツ根性もの」の略で、スポーツを題材に根性・精神論・過酷な努力を描く作品群を指します。例えば『巨人の星』(野球)、『アタックNo.1』(バレーボール)、『柔道一直線』(柔道)、『サインはV』(バレーボール)など、挙げればきりがないほど多数の作品がありました。主人公が血のにじむような練習に耐え、根性でライバルに打ち勝つという熱血ストーリーが子どもたちに大人気となったのです。

このスポ根ブームの中で、メディアやファンの間で生まれたのが「スポ根」という略語・ジャンル名でした。1970年当時、週刊少年ジャンプや少年マガジンにはスポ根漫画が必ずと言っていいほど掲載されており、テレビでもアニメや実写ドラマが放映されていました。スポーツ=根性という価値観が広く共有され、「根性だましい」「魂の特訓」などというフレーズも一般化しました。

「スポ根」という言葉は当時の雑誌記事やテレビ番組でも頻繁に使われ、1970年の流行語の一つとなりました​。例えば「今年もスポ根ものが花盛り」などといった文章で当たり前のように登場しています。その勢いは70年代半ばまで続きますが、やがて時代が下るとともにスポ根的な精神論は「古臭い」と敬遠されるようになります。それでも21世紀の現在に至るまで、熱血スポーツ漫画が生まれると「現代版スポ根」と紹介されたり、昔の作品を語る際に「往年のスポ根」と表現されたりと、「スポ根」は日本のポップカルチャー用語として定着しています。

鼻血ブー(&「アサー!」) – ギャグ漫画発の不条理ギャグ

昭和45年の子どもたちが熱狂したもう一つの世界がギャグ漫画です。1970年当時、少年誌ではナンセンスギャグがブームとなり、その中から飛び出してきたのが「鼻血ブー」というフレーズでした。この言葉は、漫画家・谷岡ヤスジの連載『ヤスジのメッタメタガキ道講座』から生まれたギャグです。

『ヤスジのメッタメタガキ道講座』は週刊少年マガジンに1970年春から連載されたナンセンス漫画で、そこで登場した「アサーッ!」という奇声や、興奮したキャラクターが鼻血を噴き出す様を表現した「鼻血ブー」が子どもたちの間で大流行しました​。特に「鼻血ブー」は、何か刺激的なもの(セクシーなものなど)を見て興奮すると鼻血が出るというギャグシチュエーションで使われ、語尾に「ブー」をつけた語感の面白さも受けて一躍有名になりました。

当時の少年たちは面白がって「鼻血ブー」を連発し、大人からは下品だと眉をひそめられたりもしましたが、その勢いは止まりませんでした。さらには谷岡ヤスジのギャグの影響で、テレビのバラエティ番組でも鼻血ギャグが取り入れられたり、「全国的にアーサー」「オンドリャー」などの意味不明な掛け声が流行したりもしました​。谷岡作品の人気は凄まじく、一回読むと「鼻血ドバドバ、二回読んだらオシッコもれる」といった煽り文句まで誌面に踊ったほどです。

「鼻血ブー」という言葉は1970年の流行語となり、当時の流行語ランキングにも登場するほどでした​。意味のないナンセンスさゆえ、しばらくするとブームは沈静化しましたが、その後も漫画・アニメにおける「興奮すると鼻血を出す」表現の定番として定着しました。現代の若者は直接「鼻血ブー」とは言わないかもしれませんが、アニメ好きなら鼻血ギャグのルーツとして知っていることもあります。奇想天外な昭和ギャグとして、「鼻血ブー」はいまだに語り草の一つとなっています。

悪ノリ – エスカレートする若者ノリを表す俗語

「それ、ちょっと悪ノリしすぎじゃない?」――こんな風に使われる「悪ノリ」という言葉。実はこれも1970年前後に若者言葉として定着した流行語です。悪ノリとは、調子に乗って度を超したふるまいをすること、ふざけすぎて周囲が引いてしまうような行為を指す俗語です。

元々「悪乗り」という表現自体は昔からありましたが、若者が軽口に「悪ノリだよ」と使うようになったのはこの頃からだと言われます。1960年代末から70年代初頭にかけて、大学紛争の沈静化後のキャンパスや、新しい若者文化の現場では、深刻な政治議論よりも仲間内でバカ騒ぎするような風潮が強まりました。その中で、羽目を外しすぎる様子を「悪ノリ」と表現するのがぴったりだったのでしょう。たとえば仲間内の宴会芸がエスカレートして手が付けられなくなる様子や、面白半分のイタズラが度を越してしまう場面など、様々なシチュエーションで使われました。

1970年当時の雑誌にも「学生の悪ノリが問題に」という記事が見られ​、既に一般にも通用する言葉として認識されていたようです。テレビではザ・ドリフターズのコントなどでメンバーが悪ノリする姿が笑いを誘い、お茶の間にもこの言葉が浸透しました。また「悪ノリ」する若者文化への大人からの批判も含め、この語は頻繁に使われました。

「悪ノリ」はその後も日常語として定着し、現在まで生き続けています。若者に限らず、誰かが調子に乗りすぎた時に「悪ノリだ」と注意するのはごく普通に行われています。当初の流行語的な新鮮味こそ薄れましたが、半世紀前に生まれたこの俗語は、日本語の語彙にしっかり根付きました。今でも飲み会などで盛り上がりすぎた友人に「おいおい悪ノリはやめとけよ」と声をかける場面があるように、その実用性ゆえに廃れることなく使われ続けています。

以上、昭和45年(1970年)に流行した言葉やフレーズの数々を、その背景や由来とともに振り返りました。大阪万博のような国家的イベントから、市井の人々の生活感覚、若者文化の台頭まで、実に多彩な流行語がこの一年には詰まっています。これらの言葉は単なる一過性の流行にとどまらず、当時の社会の空気や人々の価値観を映し出す鏡でもありました。1970年という時代を知る手がかりとして、そして昭和の懐かしさを感じるエピソードとして、今後も語り継がれていくことでしょう。

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