1972年は、日本にとって激動の一年でした。
沖縄の本土復帰や日中国交正常化、さらには札幌オリンピック開催など、大きな出来事が相次ぎます。こうした社会の変化を反映するように、この年には数多くの新語・流行語が生まれ、人々の会話を賑わせました。
本記事では、昭和47年(1972年)に日本で流行した言葉やフレーズをピックアップし、その背景や由来、当時の出来事との関わり、そして現代で使われているかどうかを詳しく解説します。
「恥ずかしながら帰って参りました」 – 戦後を生き延びた元兵士の言葉
1972年初頭、日本中に強い印象を残した言葉が「恥ずかしながら帰って参りました」です。これは、太平洋戦争終結後もグアム島に潜伏し続け、1972年1月に発見された元日本兵・横井庄一さんが帰国時に発した言葉です。横井さんは27年間も密林で生存していたことから英雄視されつつも本人は「恥ずかしいけれども帰って参りました」と控えめに述べました。記者会見でも「恥ずかしながら生き延びておりました」と発言し、このエピソードが報道されると両者が混じった形で「恥ずかしながら帰って参りました」というフレーズが人口に膾炙します。
戦後約30年を経て、突如帰還した元兵士の存在は世間を驚かせ、彼の謙虚な第一声が大きく報じられました。高度経済成長も一段落した1972年当時、日本人にとって戦争は過去のものになりつつありましたが、横井さんの帰還は戦争の記憶を呼び覚ます出来事でした。その中で彼が発した「恥ずかしながら~」という言葉は、自分の生還を「申し訳ない」とする日本人らしい奥ゆかしさとして好意的に受け取られ、茶の間の話題をさらったのです。
新聞やテレビは連日このニュースを報じ、人々は横井さんの生存生活や発言に注目しました。「恥ずかしながら帰って参りました」は流行語として取り上げられ、誰かが久しぶりに姿を現す際のジョークにも使われるようになります。例えば長期間連絡を絶っていた友人同士で「恥ずかしながら帰って参りました!」とふざけて言う、といった具合です。
「未婚の母」 – シングルマザーに注目が集まった時代背景
未婚の母(みこんのはは)とは、文字通り結婚していない女性が子供を産み育てることを指す言葉です。現在でいう「シングルマザー」に相当しますが、1972年当時はまだ珍しく、社会的にも驚きをもって受け止められたため、この言葉が大きく報じられました。
発端の一つは、人気女優の加賀まりこさんによる衝撃的な告白でした。彼女は1971年末から1972年初頭にかけて、結婚せずに子供を産む決意を表明します。当時27歳だった加賀さんは「子供を産みます。結婚はしません。愛は終わったから」と大胆な宣言をし、世間を驚かせました。実際に1972年2月に女児を出産しますが、残念ながら赤ちゃんは生後7時間で亡くなってしまいます。しかしこの一連の出来事により、「未婚の母」が大きくクローズアップされました。
「未婚の母」という表現自体はそれ以前から存在していましたが、広く流行語として認識されたのはこの時期です。当時の社会では結婚せずに子を持つことは珍しく、スキャンダラスな話題として雑誌・ワイドショーを賑わせました。この言葉はドラマや映画の題材にも取り上げられ、例えば1972年放送のテレビドラマ『未婚・結婚・未再婚』では未婚の母がテーマとして描かれています。
1970年代はウーマンリブ(女性解放運動)の機運が高まりつつある時代でした。伝統的な結婚観が揺らぎ始め、女性の自立や生き方の多様化が模索されます。そんな中で加賀まりこさんの未婚の母宣言は象徴的出来事となり、「自分らしく生きる女性像」の一例として語られました。「未婚の母」という言葉は、一部では女性の権利主張の文脈で肯定的に語られた反面、保守的な層からは批判も受けます。この論争も相まって言葉の知名度が上がっていきました。
現在では代わりに「シングルマザー」というカタカナ語が一般的に使われるようになりました。ただし法律・行政用語では「未婚のひとり親」などと表記されることもあります。当時と比べ未婚で出産・子育てを選ぶ女性も増え、社会の受け止め方も大きく変化しました。「未婚の母」という言葉自体は昭和の世相を示す用語として残っていますが、現在の日常会話で耳にする機会は少ないでしょう。
「あっしにはかかわりのねえことでござんす」 – 時代劇ヒーローのニヒルな決めゼリフ
「あっしにはかかわりのねえことでござんす」は、1972年に一世を風靡した時代劇ドラマ『木枯し紋次郎』の主人公、紋次郎の口癖です。現代風に言えば「俺には関係のないことだ」という意味で、ニヒルでクールな主人公像を象徴するセリフでした。
『木枯し紋次郎』は笹沢左保氏の原作小説をドラマ化した作品で、1972年1月からテレビ放映され大ヒットします。主人公の紋次郎は、渡世人(旅をするやくざ者)の孤独な男で、正義感はありながらも常に一匹狼を貫くキャラクターでした。彼が毎回のように発する「あっしにはかかわりのねぇ」という決めゼリフは、その非情さと格好良さから視聴者の心を掴み、子供から大人まで真似をするブームになります。
「あっし」とは江戸時代の俗語で「私」(わたし)を卑下した一人称、「ござんす」は「ございます」が崩れた江戸訛りです。つまり直訳すれば「私には関わりのないことでございます」という意味になります。もともとは時代劇調の古風な言い回しですが、紋次郎というキャラクターの人気によって1972年当時の流行語になりました。テレビ放送中はもちろん、終了後もこのセリフだけが独り歩きし、他の番組や漫画などでもパロディとして引用されるほどでした。
時代背景として、1970年代初頭は学生運動の終焉や社会の停滞感から、ニヒリズム(虚無的・冷めた価値観)が若者文化に漂っていた時代とも言われます。その中で「俺には関係ない」とクールに言い放つ紋次郎の姿は、一種のカウンターカルチャー的ヒーロー像として受け入れられました。「連合赤軍事件」など暗いニュースもあった1972年において、紋次郎の乾いた名台詞は時代の空気と妙にマッチしていたのかもしれません。
「総括」 – 極左事件で恐怖の言葉となった本来は真面目な単語
「総括」(そうかつ)自体は「物事をまとめ上げる」「総合的に評価・反省する」という意味の日本語です。しかし1972年、この言葉は全く別の不気味な響きを帯びて流行しました。というのも、連合赤軍による一連の事件で「総括」と称する自己批判の強要リンチが行われていたことが明るみに出て、連日報道されたからです。
1972年2月末に起きた「あさま山荘事件」は、日本中を震撼させました。その過程で警察の捜査により、過激派組織・連合赤軍の山岳ベース(アジト)で仲間同士の大量殺害が行われていた事実が判明します。連合赤軍はメンバー同士に自己批判を迫り、それを「総括」と称していました。しかし実態は、幹部に逆らった者や能力が足りない者への制裁・リンチであり、1971年末から72年初頭にかけて12名もの仲間を殺害していたのです。「総括せよ!」という命令は、イコール粛清の合図でした。
このショッキングな事件報道によって、「総括」という言葉は本来のポジティブな意味とは裏腹に、恐ろしい印象を伴って世間に知れ渡ります。当時の新聞・テレビは「総括」という言葉を頻繁に伝え、その異様さを解説しました。結果、「総括」は1972年を代表する新語・流行語の一つとなってしまったのです。
連合赤軍内で使われた「総括」は、元々新左翼運動の中で自己批判・反省を意味する用語でした。活動家たちは自分達の行動を振り返り、理論的に評価し直すことを「総括する」と呼んでいたのです。しかし連合赤軍のリーダーたちはこれを極端に歪め、メンバーの処刑に利用しました。「総括できていない者=革命に不適格」と決めつけて粛清する論理づけに使われたため、「総括」は血なまぐさいリンチの隠語と化してしまいました。
山岳ベースで発見された遺体の衝撃とともに、「総括」の持つ陰惨な意味合いが報じられると、人々は恐怖と嫌悪感を抱きました。「総括」という言葉は1972年の流行語ワーストワンとも言える存在で、皮肉にも世間の話題になってしまったのです。以後しばらくは日常会話で「総括」という言葉を使うだけでギョッとされたとも言われます。
「お客様は神様です」 – 舞台から生まれ漫才が広めたサービス精神の金言
「お客様は神様です」は、現在でも耳にする有名なフレーズですが、その流行のピークは1972~1973年頃でした。元々は演歌歌手・三波春夫さんがステージ上で言い始めた言葉であり、後に漫才トリオ「レツゴー三匹」がネタで取り入れたことで全国的に広まりました。
三波春夫さんは1961年頃、自身の公演で観客への感謝と畏敬の念を込めて「お客様は神様だと思います」と発言しました。舞台上で司会者に「お客さんをどう思いますか?」と問われた三波さんが答えた名ゼリフで、これがこの言葉の起源です。彼は著書の中で「舞台に立つときは敬虔な心で神に手を合わせるような気持ちで臨む。お金を払って見に来てくれるお客様に最大限報いなければならない。そういう意味でお客様は絶対的な存在=神様なのだ」という趣旨を語っています。つまり「お客様は神様です」は芸道における心得として生まれた言葉でした。
その後、このフレーズに目を付けたのが漫才師のレツゴー三匹です。彼らは三波春夫さんの物真似ネタの中で「三波春夫でございます。お客様は神様です!」と連呼し、コミカルに笑いを取ります。レツゴー三匹が全国を回る寄席やテレビでこのギャグを披露すると評判となり、1972年頃に一気に世間へ浸透しました。「お客様は神様です」という言い回しは、この漫才を通じて一種の流行語・決まり文句として定着していったのです。
高度経済成長を経て日本のサービス業が飛躍的に発展した時代背景も、この言葉の定着に寄与しました。デパートや飲食店など接客業では「お客様第一主義」が叫ばれ、従業員研修で合言葉のように使われたこともあります。「お客様は神様です」はサービス精神の極致を表すフレーズとして受け止められ、真面目な場面から冗談めかした場面まで幅広く使われました。
現在でも「お客様は神様です」は広く知られていますが、その解釈には変化が生じています。本来はサービス提供側の心得でしたが、長年のうちに「顧客側の増長」を助長する言葉としても受け取られるようになりました。近年ではいわゆるカスタマーハラスメント(カスハラ)の問題もあり、「お客様は神様」の考え方を見直そうという動きもあります。三波春夫さんのご遺族や関係者も「この言葉が一人歩きして本意でない意味に使われている」と再三説明しています。つまり現代では、「お客様は神様です」はサービス業のモットーというより、「行き過ぎた顧客至上主義」の象徴として話題に上ることが多いのです。それでもなお知名度の高い名言であり、昭和生まれのフレーズながら令和の今も賛否含め語り継がれています。
「ナウい」 – 英語由来のヤング俗語で「今っぽい」感覚を表現
「ナウい」とは、「現代的でイケてる」「流行の先端をいっている」といった意味の若者言葉です。英語の「Now」を形容詞化した俗語で、1972年当時の若者文化を象徴する言葉として流行しました。語尾にひらがなの「い」が付いているのは、日本語のイ形容詞の形に当てはめたためです(例:「ナウいファッションだね!」)。
1970年代初頭、日本の若者文化は大きな変革期にありました。ヒッピー・学生運動の時代を経て、ファッションや音楽では欧米の影響を受けたカタカナ語の流行が目立ち始めます。「ナウい」はそうした中で生まれた言葉で、都会的で最新という響きを持つため、おしゃれに敏感な若者たちの間で広まりました。1972年には夕方の人気若者向け番組『ぎんざNOW!』が放送開始され、タイトルに“NOW”が入っていたこともこの言葉の浸透を後押ししたと言われます(番組名自体が「今風」を意識しています)。
「ナウい」は英単語 now(今)に由来し、1960年代末〜70年代にかけて欧米で使われたスローガン「Freedom Now(自由を今すぐ)」から生まれたという説があります。反戦運動で掲げられたこのスローガンから「フリーダム」を除いた「Now」が日本で独り歩きし、「いま風」「当世風」という意味合いで使われ始めたと推測されています。実際、1972年当時の雑誌『言語生活』12月号では、初期には “NOWな” という表記が使われ、のちにカタカナの“ナウな”が優勢になったと報告されています。
このように広告業界やメディアから発信され、若者言葉として定着した「ナウい」ですが、派生形として「ナウなヤング」(同義語の強調)とか「ナウっちい」(より俗っぽい形容)なども生まれました。同種の言葉に「いまい」「ニューい」なんてものも一部で使われていたようですが、結局「ナウい」が一番ポピュラーになりました。
「ナウい」は残念ながら(?)完全な死語となっています。1980年代後半にはすでに若者の間で使われなくなり、むしろ「一昔前のダサい言葉」の代名詞としてネタ扱いされていました。流行に敏感で熱しやすく冷めやすい若者層が早々に見向きしなくなり、その後は中高年だけが使う古臭い言葉とみなされた、と国語学者の米川明彦氏も分析しています。現在ではテレビの懐かし企画で「○○ってナウいね!」と昔風のギャグとして登場する程度でしょう。しかし近年、「○○なう」(例:「食事なう」=今まさに○○している)といったネットスラングが普及したため、一周回って“NOW”を日本語に混ぜる感覚が復活している面白さもあります。とはいえ、「ナウい」を日常的に使う人はまずいないので、あえて使えばレトロなお笑い表現として受け取られるでしょう。
「日本列島改造論」 – 田中角栄が掲げた一大国家プラン
1972年の流行語として最も社会を賑わせた真面目な言葉が「日本列島改造論」です。これは同年に登場した田中角栄氏による経済政策スローガンであり、同名の著書タイトルでもあります。高度経済成長を背景に、日本全国のインフラ整備と産業再配置によって国土を活性化しようという壮大な構想でした。
「日本列島改造論」が世に出たのは1972年6月。当時、佐藤栄作首相の退陣を受けた自民党総裁選挙が迫っており、有力候補だった田中角栄氏がその政権ビジョンとしてこのプランを発表しました。6月11日に公表された政策綱領であり、6月20日には日刊工業新聞社から著書『日本列島改造論』として刊行されています。田中氏の抜群の知名度も手伝ってこの構想は大きな話題となり、本は異例のベストセラーになりました。発行直後から飛ぶように売れ、初版からわずか数ヶ月で91万部に達したとも報じられています。
当時の日本は高度成長の陰で、公害問題や都市過密・地方過疎といった課題が深刻化していました。田中角栄氏はそれらを一挙に解決するため「列島改造」を掲げたのです。具体的には新幹線や高速道路を全国に延伸し、工業を地方に分散、都市と地方の経済格差を無くそうという内容でした。これは国民に大きな希望と期待を抱かせ、「日本列島改造論」というフレーズは明るい未来を連想させるキャッチコピーとして大流行しました。
「列島改造」という大胆な言葉遣いも人気の一因でした。それまで政治のスローガンは「所得倍増計画」など穏当なものが多かった中、「日本列島を改造する」という表現は非常に斬新で力強く響いたのです。新聞・雑誌も連日この言葉を見出しに掲げました。さらに派生的に「○○改造論」という言い回しがブームとなり、他の政策提言や計画のタイトルも真似て「教育改造論」「企業改造論」などと付けられるほどでした。それだけ「日本列島改造論」というフレーズが1972年の流行語として浸透していたことが窺えます。
7月に行われた自民党総裁選で田中角栄氏は見事勝利し、第64代内閣総理大臣に就任します。田中内閣の発足はまさに「列島改造内閣」と呼ばれ、実際に国土開発に関する諸政策が動き始めました。例えば東北新幹線・上越新幹線の着工や、日本各地への高速道路網計画、田園都市構想などが矢継ぎ早に打ち出されます。人々は「日本が劇的に変わるかもしれない」という高揚感を持ち、この言葉に胸を躍らせました。
しかし一方で、過熱する投機も生まれます。不動産業界は列島改造ブームに乗じて地方の土地買い占めに走り、地価が急騰する地価高騰・投機騒動も発生しました結果的に無理な開発計画や地価バブルの弊害も指摘され始め、1973年の石油危機を迎えるころには「列島改造」の勢いは陰りを見せます。それでも1972年という年を象徴する言葉として「日本列島改造論」は強烈な印象を残しました。
現在でも「日本列島改造論」は歴史上の政策スローガンとして知られています。田中角栄氏の代名詞とも言える言葉であり、政治や経済の話題で彼の名前が出るとしばしば引き合いに出されます。「21世紀版列島改造論」などと称して地方創生策を語ったり、本のタイトルに拝借されたりすることもあります。つまり半ばレガシー化した流行語と言えるでしょう。2020年代の今振り返ると、田中氏の構想には課題もあったものの、地方インフラ整備など実現された部分も多く、その先見性が再評価される向きもあります。当時を知らない若い世代にはピンと来ないかもしれませんが、「日本列島改造論」は日本の高度成長期の熱気を象徴する言葉として教科書にも載るほど有名です。
「三角大福」 – 派閥抗争を表す政治のニックネーム
「三角大福」(さんかく・だいふく)とは、1972年前後に使われた自民党内派閥の四大実力者を指す俗称・合成語です。その内訳は「三」=三木武夫、「角」=田中角栄、「大」=大平正芳、「福」=福田赳夫の4名。昭和40年代後半の政界に君臨した彼らをまとめて呼ぶ際に、「三木・角栄・大平・福田」の頭文字や名前の一部を組み合わせて生まれた言葉です。
1964年から1972年まで続いた佐藤栄作政権の末期、次の首相の座をめぐって有力政治家たちがしのぎを削っていました。特に名乗りを上げていたのが三木・田中・大平・福田の4氏です。彼らはいずれも将来の首相候補と目され、派閥を率いて勢力を競い合っていました。1972年7月の自民党総裁選挙にはこの4名全員が立候補し、激しい選挙戦となります。この状況をマスコミが面白おかしく伝える中で生まれたのが「三角大福」というニックネームでした。
当時の新聞は「三角大福戦争」「三角大福の争い」などと見出しを付け、派閥抗争をドラマチックに報じました。国民にとっては難解な政局も、この愛称によって分かりやすく記憶されることになります。ちょうど大相撲の「柏鵬時代」(柏戸・大鵬のライバル関係)になぞらえるかのように、政治の世界でもライバル4人組として三角大福が語られたのです。
「三角大福」というユニークな合成は、一説には新聞記者によって考案されたと言われています。4人の名前から一字ずつ取っていますが、「三」は三木の苗字、「角」は田中角栄の名前(角栄)から、「大」は大平の苗字、「福」は福田の苗字からです。奇しくも“三角”と“大福”という二つの既存の単語を繋げた形になり、インパクト抜群でした。おまけに和菓子の大福餅を連想させる響きで覚えやすく、国民にもすぐ浸透しました。政治家自身もこの呼称を嫌がるどころか、しばしば自嘲気味に使ったりもしていたようです。
三角大福が勢揃いした1972年の総裁選では、結果的に田中角栄(角)が勝利し、他の三木・大平・福田は敗れます。その後も角栄vs福田の確執(いわゆる「角福戦争」)や、大平vs福田の抗争(「大福密約」など)へと政治ドラマは続き、「三角大福」は昭和50年代初めまで政局を語るキーワードとして使われました。まさに昭和政治史の一幕を象徴する流行語だったのです。
「若さだよ、ヤマちゃん!」 – ビールCMで大ヒットした陽気なキャッチフレーズ
1972年にはコマーシャル発の流行語も生まれました。その代表が、サントリービールの宣伝コピー「若さだよ、ヤマちゃん!」です。これはサントリー純生ビールのテレビCMで俳優の佐藤允(さとう まこと)さんが発したセリフで、当時大人気となりました。
1970年代初頭はビール各社がテレビCMに力を入れ始めた時代です。サントリーは「純生(じゅんなま)」というビールの販促キャンペーンで、軽妙なCMソング「純生どどんと音頭」とともにインパクトあるフレーズを打ち出しました。そのCMに登場したのが個性派俳優の佐藤允さんで、ビール瓶を豪快に飲み干して「ぷはーっ」と息をついた後、彼がニカッと笑って発するのが「若さだよ、ヤマちゃん!」という一言でした。
「ヤマちゃん」とは視聴者に呼びかけている架空の人物名ですが、特定の誰かではなくお茶の間のあなた(山田さんや山本さんなど)に語りかけるニュアンスです。佐藤さん演じる陽気なおじさんが、ビールの美味さを「若さ」に喩えて訴求するユニークな設定でした。このCMが1972年に放送開始されるとたちまち評判となり、佐藤允さんの豪放磊落なキャラクターも相まってお茶の間で大受けします。「若さだよ、ヤマちゃん!」は耳に残るフレーズとして口コミで広がり、その年の流行語になりました。
CMソング「♪どどんと音頭」に合わせて佐藤允さんが「若さだよ!」と叫ぶ姿は強烈で、人々の記憶に焼き付きました。子供達まで真似をし、学校で「若さだよ、○○ちゃん!」などと言い合う遊びが生まれたほどです(実際、当時の子供だった人の回想にそうしたエピソードが見られます)。広告業界でもこのCMは高く評価され、以降のビールCMの演出に影響を与えました。佐藤允さん自身もこのフレーズでお茶の間の人気者となり、翌年以降バラエティ番組などで共演者から「若さだよ、ヤマちゃん!」と振られる場面もあったほどです。
「ニーハオ(你好)」 – パンダ来日で湧いた日中交流ブームの挨拶
「ニーハオ(你好)」は中国語で「こんにちは」を意味する言葉です。1972年は日本と中国の関係に大きな進展があり、「ニーハオ」ブームが巻き起こりました。日中国交正常化が実現し、中国から贈られたパンダが来日したことで、日本国内に中国ブームが広がったのです。
第二次世界大戦後、日本は長らく中華人民共和国と公式な外交関係を持っていませんでしたが、1972年9月に田中角栄首相が訪中し、周恩来総理との間で日中共同声明に調印、ついに国交正常化が実現します。この歴史的和解をきっかけに、日本では中国への関心が一気に高まりました。10月には友好の証として中国からジャイアントパンダのカンカン(康康)とランラン(蘭蘭)の2頭が上野動物園に贈られます。上野動物園では連日長蛇の列ができ、空前の「パンダブーム」が発生しました。
こうした中で、中国語の挨拶「你好(ニーハオ)」も日本人に広く知られるようになります。新聞やテレビでパンダの様子が報じられる際、「中国ではこんにちはを『ニーハオ!』と言います」といった紹介がなされ、動物園でも来園者がパンダに向かって「ニーハオー!」と声をかける姿が見られました。「ニーハオ」は日中友好ムードを象徴するキャッチフレーズとして1972年後半の流行語になったのです。
「你好(ニーハオ)」は直訳すれば「あなたはお元気ですか」という意味合いの中国語挨拶です。日本ではそれまで中国語自体が一般には馴染み薄く、「ニーハオ」を知る人は少数でした。しかし国交正常化直後は雑誌やテレビがこぞって中国語会話の特集を組み、「まずはニーハオと言ってみよう」といった触れ込みで紹介しました。子供向け番組でも中国の歌や挨拶を教えるコーナーが登場し、「ニイハオ」の発音が飛び交いました。
1972年は「日中○○」が流行した年でもあります。パンダに熱狂し、北京ダックや紹興酒など中国の物産・料理が注目され、中国映画の上映会や写真展が各地で開かれました。その際に「ニーハオ」が合言葉のように使われ、まさに日中友好の象徴となったのです。また、この頃から中国語を第二外国語に選ぶ大学生も増え始め、「ニーハオ」をきっかけに中国語学習を始めた人も多かったようです。
「恍惚の人」 – ベストセラー小説が生んだ高齢社会へのまなざし
「恍惚の人」は1972年に出版された有吉佐和子氏の長編小説のタイトルです。同年のベストセラー第1位を記録し、作品名そのものが流行語として取り沙汰されました。内容は高齢になって認知症の症状が出始めた父と、それを介護する家族を描いたものです。タイトルの「恍惚の人」とは、認知症で意識が朦朧とする高齢者を指す表現として作中で使われています。
1970年代初頭、日本は平均寿命が大きく伸び始め、高齢化社会の入り口に差し掛かっていました。しかし当時は認知症(いわゆる「痴呆」)という概念も社会に浸透しておらず、介護問題が公に論じられることも少なかった時代です。そんな中登場した有吉佐和子さんの『恍惚の人』は、家族の介護というテーマを真正面から扱い、多くの読者に衝撃と共感を与えました。
小説は1972年に刊行されるや口コミで評判が広がり、ミリオンセラーとなります。さらに1973年には早くも映画化(主演:森繁久彌)され、話題をさらいました。この社会現象により、「恍惚の人」という言葉が作品を離れて一人歩きし始めます。当時は高齢でぼんやりしているお年寄りを見ると「あの人は恍惚の人だね」などと言う人もいたほどで、決してポジティブな使われ方ではありませんでしたが、それだけ世間に浸透した流行語でもありました。
「恍惚」はもともとうっとりと心奪われた様子や、転じて意識が朦朧とした状態を意味する日本語です。有吉佐和子さんは、認知症状により現実と幻想の狭間にいる老人の姿を「恍惚の人」という印象的な表現で言い表しました。作中では主人公の老人が時折見せる恍惚とした表情から娘がそう呼ぶシーンがあります。この斬新なタイトルは出版当初から話題となり、内容を知らない人にも強いインパクトを与えました。
『恍惚の人』のヒットを契機に、日本でも高齢者介護や老人性認知症が社会問題として意識され始めます。新聞や雑誌は「恍惚の人現象」「恍惚老人」などの見出しで老後問題を特集し、初めて真剣に議論が起こりました。その意味で、この言葉は単なる流行語に留まらず社会的インパクトを持った新語でした。ただ一方でセンセーショナルな響きのため、老人本人に対して軽々しく「恍惚の人」と呼ぶのは失礼だという批判も出ました。
現在では「恍惚の人」という表現を実際の高齢者に対して使うことはまずありません。介護や認知症に対する理解が進み、適切な言葉遣いが求められるようになったからです。代わりに「認知症の人」「高齢の要介護者」といった表現が定着しています。したがって「恍惚の人」が流行語として口にされることはなくなりました。ただし有吉佐和子さんの小説タイトルとしては広く知られており、今なお名作として読み継がれています。また昭和の流行語を振り返る際には必ずと言っていいほど登場し、「当時はこんな言葉でお年寄りを表現していた」という時代の証言として扱われます。
以上、1972年(昭和47年)に流行した主な言葉やフレーズについて、その背景や由来、当時の状況との関連、そして現代での位置づけをまとめてご紹介しました。この年は政治的にも文化的にも大きな転換点であり、その空気を反映して多種多様な流行語が生まれたことが分かります。
振り返ってみると、現在でも耳にするものからすっかり廃れてしまったものまで様々ですが、どの言葉も当時の人々の関心や世相を映す鏡でした。例えば、「お客様は神様です」や「日本列島改造論」には高度成長期の勢いと希望が感じられますし、「恍惚の人」や「未婚の母」からは社会問題への目覚めが伺えます。また「ナウい」「若さだよヤマちゃん!」には時代の明るさと娯楽性が溢れ、「総括」には暗い陰影が刻まれています。こうした言葉の数々を学ぶことで、1972年という年の雰囲気をより立体的に捉えることができるでしょう。