1977年(昭和52年)の流行語とその背景

1977年(昭和52年)は、日本社会が大きく揺れ動き、新しい文化や現象が次々と生まれた年でした。この年には政治スキャンダルから生まれたフレーズや、映画・テレビの名台詞、若者文化を象徴する新語など、多彩な「流行語」が世間を賑わせました。

今回は1977年当時に流行した言葉やフレーズを深掘りし、その背景や由来、当時の出来事との関連性、そして現代での使われ方についてまとめます。

当時を知る人には懐かしく、知らない世代には新鮮な昭和52年の流行語の世界をのぞいてみましょう。

社会・政治から生まれた流行語

「よっしゃ、よっしゃ」――田中角栄のひと言から話題に

1977年当時、前年に発覚したロッキード事件の裁判が進行中でした。その公判冒頭で検察が読み上げた田中角栄元首相の発言として伝えられたのが「よっしゃ、よっしゃ」です。これは、商社・丸紅からの賄賂5億円の申し出に対し、田中角栄被告が「よっしゃ、よっしゃ(よし、いいだろう)」と受け入れたとされる場面に由来しています​。

この言葉が流行した背景には、ロッキード事件という戦後最大級の汚職スキャンダルへの関心の高さがありました。田中角栄氏は逮捕・起訴されましたが、その豪放磊落なキャラクターと言動は依然注目の的でした。汚職事件の深刻さとは裏腹に、この俗っぽい口癖のようなフレーズは皮肉にも世間の耳目を集め、当時の流行語となりました​。人々は政治風刺や冗談で「よっしゃ、よっしゃ」を使い、権力者の姿を皮肉ったのです。

「よっしゃ、よっしゃ」は権力者の裏側を象徴する言葉としてニュースで繰り返し報じられ、一般の人々にも強烈な印象を残したのです。現在ではこのフレーズを日常で耳にすることは少ないものの、昭和の汚職事件を語る上でしばしば引き合いに出される歴史的な流行語と言えるでしょう。

映画・テレビ発の流行語

「たたりじゃー!」――映画『八つ墓村』の恐怖の叫び

「たたりじゃー!」は1977年公開のホラー映画『八つ墓村』から生まれた流行語です。横溝正史原作のミステリーが映画化され、劇中で濃茶の尼(寺に住む尼僧)が狂乱しながら叫ぶ「祟りじゃーっ!八つ墓の祟りじゃーっ!」というセリフがテレビCMなどで繰り返し流されました。この強烈な宣伝コピーが視聴者の記憶に残り、「祟りじゃー(たたりじゃー)!」というフレーズだけが独り歩きして大流行したのです。

背景には“横溝ブーム”とも言われた当時のホラーミステリー映画の人気があります。『八つ墓村』は同年の邦画興行収入第3位となる大ヒットを記録し、その恐怖を煽るCMは子どもにもトラウマを与えるほど強烈でした。「たたりじゃー!」は「あの恐ろしい映画」という文脈で会話に登場したり、何か不吉な出来事があると冗談めかして使われたりしました。

当時を知らない世代でも、ホラー映画の特集などでこのセリフを耳にしたことがあるかもしれません。現在では日常会話で使う人はまずいませんが、1970年代後半の日本でホラーが社会現象となった象徴的な言葉です。

「天は我々を見放した」――映画『八甲田山』の絶望の一言

「天は我々(われわれ)を見放した…」も1977年の邦画から誕生した有名なセリフです。極寒の雪山での悲劇を描いた映画『八甲田山』のクライマックスにて、遭難しかけた部隊の隊長・神田大尉(演:北大路欣也)が絶望の中で発した言葉でした。この台詞は映画のテレビCMや予告編でも印象的に使われ、その悲壮感あふれるフレーズがそのまま流行語になりました。

当時、日本陸軍の史実を基にした『八甲田山』は社会的にも大きな話題となり、「もうダメだ…天は我々を見放した!」という叫びは流行語として独り歩きします。何か物事がうまくいかないときに「天が見放したよ…」と自虐的に使う人がいたり、パロディにされたりもしました。

実際にはこの言葉通りの絶望的状況はそうそう起こりませんが、昭和52年当時はそれだけこの映画のインパクトが強く、人々の記憶に刷り込まれた証と言えるでしょう。現在ではもっぱら映画の名ゼリフとして語られ、日常で使われることは少なくなりましたが、昭和の名作映画が生んだ忘れがたいフレーズです。

「ダメだ、こりゃ」――ザ・ドリフターズ(いかりや長介)の決めゼリフ

お茶の間の人気者だったザ・ドリフターズも1977年に流行語を生み出しています。それがリーダー・いかりや長介さんの名ゼリフ「ダメだ、こりゃ」です。フジテレビ系のコント番組『ドリフ大爆笑』内の「もしものコーナー」(もし○○だったら…というコント)でオチとして生まれたギャグで、コントがグダグダになった最後に長介さんが渋い顔で「ダメだ、こりゃ」と締めくくるのがお約束でした。

このフレーズは放送を通じて全国のお茶の間に浸透し、「うまくいかなくてどうしようもない様子」を茶化して言う流行語になりました。「勉強ダメだこりゃ」「このプロジェクトはダメだこりゃ」などと冗談交じりに使われ、失敗も笑い飛ばすドリフ流のユーモアとして受け入れられたのです。

背景には、当時ドリフが国民的人気グループであったことがあります。最高視聴率50%超えを記録した伝説の番組『8時だョ!全員集合』でおなじみのドリフのギャグは、誰もが学校や職場でマネする存在でした。「ダメだ、こりゃ」はその代表格で、今でも中高年世代には思わず口をついて出ることがある懐かしのフレーズでしょう。ただし若い世代には通じないことも多いので、使うときは注意が必要かもしれませんね。

「普通の女の子に戻りたい」――キャンディーズ電撃引退の名フレーズ

1970年代を代表するアイドルグループ・キャンディーズは、1977年に突然の解散(引退)を発表して世間を驚かせました。その場でメンバーのランこと伊藤蘭さんが涙ながらに叫んだのが「普通の女の子に戻りたい!!」でした​。トップアイドルが発したこのあまりに初々しく切実な言葉はテレビや新聞で大きく報じられ、瞬く間に有名になります。当時このフレーズは流行語にもなり、「普通の女の子に戻りたい」は1977年を象徴する言葉の一つとなりました​。

キャンディーズの人気絶頂期での解散宣言は社会現象となり、なぜ彼女たちは「普通の女の子」に戻りたがったのかと大きな議論を呼びました。芸能界の華やかさと裏腹に、プライベートを取り戻したいという切実な叫びは、多くの若者の共感やセンチメンタルな気持ちを誘ったのです。「普通の女の子に戻りたい」はその後しばらく色々な場面で引用・パロディ化されました。たとえば勉強漬けの受験生が冗談で「普通の子供に戻りたい…」と言ってみたり、芸能界を引退する他のタレントにこのフレーズを重ねたりする風潮もありました。

現在ではキャンディーズ世代以降の人にとって伝説的なエピソードとして知られる言葉です。実際、伊藤蘭さん自身が引退から約40年後に芸能活動を再開した際には「普通の女の子に戻りたいと言ったあの娘が帰ってきた」と話題になったほどで、このフレーズのインパクトがいかに大きかったかがうかがえます。昭和のアイドル文化の光と影を物語る名フレーズでした。

「トンデレラ、シンデレラ」――ユニークなCMが生んだキャッチフレーズ

1977年にはテレビCMからも思わぬ流行語が生まれました。殺虫剤「キンチョール」のCMで研ナオコさんがコミカルに歌ったフレーズ「♪あっ、トンデレラ!あっ、シンデレラ!」です。一見意味不明なこの言葉は、「ハエが仲よく飛んでる(=トンデる)ら、死んでるら(=シンデレラ)」というダジャレを歌詞に織り交ぜたもので、商品名にひっかけたユニークなCMソングでした。

このキンチョールのCMソングは視聴者の笑いを誘い、「トンデレラ、シンデレラ」というフレーズのインパクトから子どもたちを中心によく真似されました。当時は研ナオコさんが他にもコミカルソングを出していたこともあり、彼女の飄々としたキャラクターとも相まって印象に残ったのでしょう。「トンデレラ、シンデレラ」は1977年の流行語の一つとして各種ランキングにも登場しています。

文字通り“飛んでる”語感の面白さで流行した言葉ですが、もちろん一過性の流行であり、現代では懐かしいCMの話題でも出ない限り耳にすることはありません。

新しい文化・若者言葉の流行語

「カラオケ」――空っぽのオーケストラ、新しい娯楽の爆発的人気

今や世界中で親しまれている「カラオケ」も、実は1970年代に生まれた日本発祥の言葉です。「カラオケ」とは「空(から)のオーケストラ」の意味で、伴奏だけが流れる音響装置を指します​。1971年に井上大祐氏がテープデッキとアンプを組み合わせた機械を考案し、これが後にカラオケ第1号機となりました。しかし一般にこのカラオケが爆発的ブームになったのは1977年頃からです。この年の末頃、日本ビクターなど大手音響メーカーも参入して家庭用カラオケ機器を発売し、スナックや宴会場でカラオケセットが飛ぶように売れました。映像の無い8トラックカセットテープ式でしたが、酒席の余興に欠かせない存在となり、「カラオケ文化」はここから全国に、さらに世界へと広がっていきました​。

「カラオケ」が流行語になった背景には、日本人の余暇の過ごし方の変化があります。それまで宴会や酒場では生演奏の伴奏や飛び入りのど自慢が定番でしたが、機械さえあれば誰でも歌えるカラオケの登場は画期的でした。1977年当時は、カラオケが急速に普及した年として報道され​、新しもの好きの人々は競ってこの装置を体験しました。「カラオケ」という言葉自体も珍しさからニュースや会話で盛んに使われ、流行語化したのです。

その後のカラオケの歩みは説明するまでもなく、日本発の娯楽として平成・令和までずっと定着し続けています。今や「カラオケ」は世界共通語となり、日本文化を代表する言葉の一つとなりました。まさに1977年は“カラオケ元年”とも言える転機の年だったのです。

「翔んでる女」――新時代を生きる“とんでる女性”たち

1977年当時の世相を語るうえで外せないのが「翔んでる女(とんでる女)」という表現です。一見不思議なこの言葉は、「既成概念にとらわれず自由に生きる新しいタイプの女性」を指す当時の若者言葉でした​detail.chiebukuro.yahoo.co.jp。「翔んでる」は「ぶっ飛んでいる」「常識の枠を飛び越えている」といった意味合いの俗語で、1970年代後半に流行します。特に女性に対して「翔んでる女」と使われた背景には、女性の社会進出やライフスタイルの多様化がありました。

直接のきっかけとしては、1977年にアメリカの小説『恐るべき恋愛術(原題: Fear of Flying)』の邦訳版がベストセラーになり、それまでおとなしかった日本の女性たちにも自己主張や解放的な生き方を肯定する風潮が生まれたことが挙げられます。進歩的な発言をする女性に対して「彼女は翔んでる女だから」と評するような場面もあり、従来の枠に収まらない女性像を象徴する言葉として「翔んでる女」が定着しました。当時の西武百貨店の時代を先取る広告などにも「翔んでる」感覚があふれており、メディアでも盛んに使われました。

「翔んでる女」という表現はその後1980年代に入ると聞かれなくなっていきます。現代の感覚では少々古めかしく感じられるかもしれません。しかし1977年前後の雑誌記事や流行語ランキングには必ずと言っていいほど登場するキーワードであり、女性の価値観が変わり始めた時代を映す象徴的な流行語だったのです。今で言う「個性的な人」「自由な人」を当時風に言い換えた言葉として、昭和の世相を知る上で覚えておきたいフレーズでしょう。

「話がピーマン」――中身スカスカ? 若者のユーモア表現

「話がピーマン」とは、一見ユニークな比喩表現ですが、当時の若者言葉で「話の中身がないつまらない内容」という意味で使われました​。ピーマン(青椒)は中空で中身がスカスカな野菜です。そこから「お前の話はピーマンだな!」と言えば「君の話は芯がなく空虚だね」といった辛辣ながらコミカルな評価になります。

このような言葉が流行した背景には、1970年代後半の若者文化特有のユーモアがあります。学生運動の熱も冷め、かといってバブル経済前夜の派手さもない時代、若者たちは皮肉やジョークで日常を語りました。「話がピーマン」は、友人同士で雑談のオチとして笑いながら使われることが多かったようです。「中身ないじゃん!」よりもソフトで洒落が効いており、軽いノリで相手にツッコミを入れる表現として親しまれました。

しかしこの言葉もあくまでその時代限りの流行語です。残念ながら(?)平成以降に若者が使っている例はほとんど見られず、今や死語と言えるでしょう。当時を知る人がジョークで口にすれば懐かしんでもらえるかもしれませんが、伝わらない場合は「つまり話に中身がないってことだよ」と補足説明が必要かもしれませんね。

「ルーツ」――米ドラマから日本中が自身のルーツ探しブームに

1977年、日本で空前のヒットを記録したアメリカのテレビドラマがあります。黒人奴隷の歴史を描いた超大作『ルーツ(ROOTS)』です。このドラマが同年10月にテレビ朝日系列で放送されると大反響を呼び、「ルーツ」という言葉自体が日本でも流行語となりました。人々は影響を受けて「自分のルーツ(祖先や家系)を探してみよう」と考えるようになり、ちょっとしたルーツ探しブームが巻き起こったのです。

ドラマ『ルーツ』は平均視聴率23.4%を記録し、日本でも連日話題に上る社会現象となりました。主人公クンタ・キンテの数奇な運命に心を動かされた視聴者たちは、「自分の先祖は何者だったのだろう?」と関心を寄せました。「ルーツ」という英単語はこの時初めて一般に定着し、外来語として日本語辞書に載るまでになったと言われています​。

このブームは一過性のもので、しばらくすると熱は冷めました。しかし現在でも「自分のルーツ」という表現はごく普通に使われていますし、家系図ブームやDNA鑑定サービスなど形を変えて受け継がれている部分もあります。「ルーツ」が流行語となった1977年は、グローバルなテレビコンテンツが日本人の意識を変えた年でもありました。

その他1977年の主な流行語あれこれ

ここまで紹介した以外にも、昭和52年には実に様々な言葉が世相を反映しました。経済分野では「円高」が深刻化し、日本円の価値上昇がニュースの焦点となったため「円高」という言葉自体が頻出ワードに。

また社会現象としては、健康志向の高まりから「ジョギング」がブームになり、この英語も日常語として定着しました。同じ頃、大学卒業後もフラフラと定職に就かない若者を指して「モラトリアム人間」(大人になることを猶予している人)という新語も生まれています。高齢者向けには裕福で活動的なシニアを表す「シルバー族」という言葉もこの時期によく使われました。

これらは現在でも専門用語や一般用語として残っているものもあれば、その時代ならではの表現として忘れ去られたものもあります。

1977年は、このように政治から娯楽、社会から若者文化まで多彩な流行語に彩られた一年でした。流行語は単なる言葉遊びではなく、時代の空気を閉じ込めたカプセルのようなもの。昭和の今頃、どんなことが人々の関心事で、どんな風に笑い合ったり驚いたりしていたのか――流行語を通して振り返ると、当時の人々の息遣いが聞こえてくるようです。

昭和52年の流行語たちは、これからも語り継がれる昭和のワンシーンとして私たちの記憶と言葉の中に生き続けていくことでしょう。

  • URLをコピーしました!